ロベルト・ペタジーニ
Roberto Petagine基本情報
国籍 ベネズエラ
出身地ヌエバ・エスパルタ州ポルラマル
生年月日 (1971-06-02) 1971年6月2日(53歳)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション一塁手、外野手
プロ入り1990年 アマチュアFA
初出場MLB / 1994年4月4日
NPB / 1999年4月2日
KBO / 2008年5月17日
最終出場MLB / 2006年7月8日
NPB / 2010年10月18日
KBO / 2009年9月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
アントニオホセ大学
ヒューストン・アストロズ (1994)
サンディエゴ・パドレス (1995)
ニューヨーク・メッツ (1996 - 1997)
シンシナティ・レッズ (1998)
ヤクルトスワローズ (1999 - 2002)
読売ジャイアンツ (2003 - 2004)
ボストン・レッドソックス (2005)
シアトル・マリナーズ (2006)
メキシコシティ・レッドデビルズ (2008)
LGツインズ (2008 - 2009)
福岡ソフトバンクホークス (2010)
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ロベルト・アントニオ・ペタジーニ・エルナンデス(Roberto Antonio Petagine Hernandez、1971年6月2日 - )は、ベネズエラ出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。
2003年の推定年俸7億2,000万円は、NPB史上歴代4位および野手最高年俸でもある[1]。 1990年2月13日にヒューストン・アストロズと契約。 1994年4月4日のモントリオール・エクスポズ戦でメジャーデビュー。 12月28日にトレードでサンディエゴ・パドレスへ移籍。 1996年3月17日にトレードでニューヨーク・メッツへ移籍。1997年には傘下のAAA級球団であるインターナショナルリーグ (IL) のノーフォーク・タイズで129試合に出場、打率.318・31本塁打・100打点、OPSは1.035の成績を残し[2]、ILのリーグMVPに選出された[3]。同年オフ、当時のメッツ監督で、NPBの千葉ロッテマリーンズでも監督を務めた経験を有するボビー・バレンタインがオリックス・ブルーウェーブに対し、野村貴仁との交換トレードを打診する[4]。オリックス監督の仰木彬はペタジーニに興味を示し、新井宏昌・小林晋哉の両コーチも獲得に賛意を示したが[4]、同球団フロントが獲得を見送ったため、実現しなかった[5]。 1998年2月5日にトレードでシンシナティ・レッズへ移籍。同年は傘下のAAA級球団であるILのインディアナポリス・インディアンズで102試合に出場し、打率.331・24本塁打・109打点を記録し、OPSも1.053を記録[2]。一方、メジャーでは34試合に出場[6]、打率.258・3本塁打・7打点の成績に終わった[3]。 1998年12月2日にヤクルトスワローズと契約。ヤクルトは同年オフ、ドゥエイン・ホージーとエリック・アンソニーの両選手を解雇しており、彼らと入れ替わる形でペタジーニと[3]、マーク・スミス(前ピッツバーグ・パイレーツ)をそれぞれ新外国人打者として獲得した[7]。背番号は9で、推定年俸約60万ドル(当時のレートで約6,816万円)の1年契約だった[8]。 1999年、開幕から4番を任されるも4月終了時点での打率は.227、本塁打9本と確実性という面では期待ほどの結果を残せていなかったが、5月以降は打率面でも成績が向上。シーズン前半終了時点で打率.324、本塁打26本と結果を残し、怪我をして出場辞退となった読売ジャイアンツ(巨人)の清原和博に代わり、補充選手としてオールスターゲームにも選出された。最終的に松井秀喜(巨人)やロバート・ローズ(横浜)との激しい本塁打王争いを演じ、最終的には44本塁打で本塁打王、出塁率.469で最高出塁率のタイトルをそれぞれ獲得。長打力も発揮し長打率.677はリーグ最高記録だった。来日1年目で史上初となる「打率3割・40本塁打」以上を記録した。 2000年は全試合出場を果たし、36本塁打を放った。
経歴
プロ入り前
アストロズ時代
パドレス時代
メッツ時代
レッズ時代
ヤクルト時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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