ロベルト・フィツォ
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スロバキア政治家ロベルト・フィツォRobert Fico

生年月日 (1964-09-15) 1964年9月15日(59歳)
出生地 チェコスロバキア、トポリュチャニ市
出身校コメニウス大学
所属政党スロバキア共産党 (KSS, 1987-1990)
民主左翼党 (SD?, 1990-1999)
方向 (SMER, 1999-2005)
方向・社会民主主義(SMER-SD,2005-)
配偶者スヴェトラナ・フィツォヴァー
サイン
スロバキア
第12代 首相
在任期間2023年10月25日 - 現職
大統領ズザナ・チャプトヴァー
スロバキア
第7代 首相
在任期間2012年4月4日 - 2018年3月22日
大統領イヴァン・ガシュパロヴィッチ
アンドレイ・キスカ
スロバキア
第5代 首相
在任期間2006年7月4日 - 2010年7月8日
大統領イヴァン・ガシュパロヴィッチ
その他の職歴
初代 方向・社会民主主義党首
1999年11月8日 - 現職)
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ロベルト・フィツォ(Robert Fico, 1964年9月15日 - )は、スロバキア法律家政治家。現在、同国首相(3期目。2006年7月4日 - 2010年7月8日2012年4月4日 - 2018年3月22日2023年10月25日 - 現職)。中道左派政党「スメル(方向)・社会民主主義」 (SMER-SD) の党首。
略歴

フォークリフト作業員の父と靴販売員の母の次男として西部スロバキア県(現・ニトラ県)トポリュチャニ市で生まれる。1986年ブラチスラヴァ・コメニウス大学法学部を卒業。1987年スロバキア共産党に入党し刑法学研究員としてスロバキア科学アカデミー国家法律研究所 (Ustav ?tatu a prava SAV) に就職した。のち法務省法律研究所 (Pravnickeho in?titutu MS SR) 副所長を務め、1995年に退職した。また政府任用で1994年から2000年まで欧州人権裁判所の法律顧問を務めた。
政歴

1989年ビロード革命で社会主義政権が崩壊した後、スロバキア共産党主流派が結成した民主左翼党 (SD?: Strana demokratickej ?avice) に参加し、副党首に就任。1992年の国民議会選挙で初当選した。民主左翼党は1998年選挙で連立与党として第一次ミクラーシュ・ズリンダ政権に加わったが、自らの処遇への不満と、ベネシュ布告の廃止を求める少数民族政党ハンガリー人連立党 (SMK: Strana ma?arskej koalicie) が同じ連立与党として政権に加わったことへの反発から1999年に離党して下野。新党のスメル (SMER) を結成して党首に就任した[1]

その後2002年選挙で左派政党が惨敗したことを受けて社会民主主義路線を強め、2004年12月に民主左翼党や社会民主オルタナティブ(SDA: Socialnodemokraticka alternativa)など中道左派系の諸政党を糾合する形で方向・社会民主主義 (SMER-SD: SMER-socialna demokracia) を結成。フィツォはポピュリスト政党である民主スロバキア運動 (HZDS: Hnutie za demokraticke Slovensko) のウラジミール・メチアルや民主運動 (HZD: Hnutie za demokraciu) のイヴァン・ガシュパロヴィチナショナリズム政党のスロバキア国民党 (SNS: Slovenska narodna strana) のヤーン・スロタら野党各党の既存政治家を上回る支持を集める有力政治家となった。
首相時代

2006年国民議会選挙でSMER-SDは29.1%の得票率を得て50議席を獲得して第一党になり、SNSおよび人民党・民主スロバキア運動 (?S-HZDS) と連立政権を組んで首相に就任した。外国からの投資を呼び込み経済成長を実現した前政権の経済自由化政策を受け継ぎつつも、左派政権として賃金引き上げや年金制度の改革などを実施して軌道修正した。

一方、与党第二党のSNS党首スロタの意向を汲んだ民族主義的政策も展開した。2009年6月には文書、看板、記念碑などに記載される公の情報をスロバキア語で記述しない場合に罰則を課すなど、公の場における少数民族言語の使用制限を盛り込んだ改正国家言語法(スロバキア共和国国民議会2009年法律第318号)を成立させた。

さらに2010年3月にはスロタが提出した教育機関の一週間の始業前および公共イベント開始前における国家斉唱や教室での国旗掲示などを義務づける愛国心促進法案を可決させ、SMKのみならずスロバキア民主キリスト教連合・民主党 (SDKU-DS: Slovenska demokraticka a kres?anska unia - Demokraticka strana) など野党の中道右派各党が厳しく批判した。このため同年4月、ガシュパロヴィチ大統領は愛国心促進法案に署名せず、再審議が必要だとして国民議会に差し戻した。
連立与党の敗退

世界金融危機の影響で2009年の経済成長率がマイナスに転じ、失業率が15%にまで上昇する中、2010年国民議会選挙ではSMER-SDが得票率34.79%で前回を上回る62議席を獲得して引き続き第一党の座を確保した反面、連立相手の?S-HZDSは議席をすべて失い、SNSも改選前の20議席を大きく下回る9議席にとどまって共に惨敗。与党が過半数を維持できなくなった。フィツォは選挙後、第二党のSDKU-DSイヴェタ・ラジチョヴァー副党首(選挙対策本部長)ら4つの中道右派政党に対して連立協議を試みたもののすべて拒否され[2]、中道右派連立のラジチョヴァーに政権を明け渡したが、新たに国民議会の副議長に就任した[3]
2度目の首相登板と批判記者暗殺関与疑惑辞任

2012年3月10日に繰り上げ実施された国民議会選挙でスメルは83議席と過半数を制し、4月4日に再び首相に就任した[4]

2018年2月に政権幹部の汚職批判追求報道していた記者のヤン・クツィアクとその婚約者が遺体で発見されるという事件が起こり、死んだクツィアクの取材内容が明らかとなるとフィツォへの批判が噴出。3月14日、前倒し総選挙の回避・後継首相を自身の党から出すことを条件に首相辞任を表明した。しかし、党首の地位からは辞任しなかった[5][6][7]
3度目の首相登板

2023年にはスメル党首として、ウクライナ支援とロシア制裁への反対を表明し国内の親露派の支持を集めた[8]。9月30日に執行された国民議会選挙(英語版)でスメルは150議席中42議席を獲得し第1党となり[9]、10月2日にズザナ・チャプトヴァー大統領より組閣を要請された[10]


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