ロベルト・デュラン
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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はデュラン、第二姓(母方の)はサマニエゴです。(Template:スペイン語圏の姓名

ロベルト・デュラン1994年、ビニー・パジェンサとの試合前
基本情報
本名ロベルト・デュラン・サマニエゴ
通称Manos De Piedra(石の拳)
階級ミドル級
身長170cm
リーチ168cm
国籍 パナマ
誕生日 (1951-06-16) 1951年6月16日(70歳)
出身地パナマ県エンチョリーヨ
プロボクシング戦績
総試合数119
勝ち103
KO勝ち70
敗け16
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ロベルト・デュラン(Roberto Duran、1951年6月16日 - )は、パナマプロボクサー。ニックネームは「石の拳(コブシ) Manos De Piedra, Hands of Stone 」。

娘であるイリシェル・デュランもプロボクサー。目次

1 来歴

1.1 キャリア初期

1.2 1980年代

1.3 キャリア後期

1.4 日本での異種格闘技戦


2 略歴

3 対戦成績

4 脚注

5 関連項目

6 外部リンク

来歴
キャリア初期

1951年6月16日、エンチョリーヨのスラム街で生誕。

1968年、16歳でプロデビュー以来、連戦連勝を続け、その中には後のフェザー級王者エルネスト・マルセルや世界スーパーフェザー級王座を6度防衛した小林弘をKOで下す試合などが含まれている。

1972年6月26日、無敗のままWBA世界ライト級王者ケン・ブキャナンに挑戦。デュランは初回からダウンを奪うなどして終始攻勢。そして13回、ボディブローでKO勝ちを収めた。ブキャナン側からローブローであると抗議の声が上がったがデュランが新王者となった。

世界王座に就いてからのデュランは更に怪物的な強さを発揮する。「石の拳(こぶし)」と形容された野性的な強打で、後のWBC世界王者ガッツ石松、タフで鳴らしたレイ・ランプキン等の実力者を相手に、10連続KOを含む11度の防衛を達成。その間もノンタイトル戦も頻繁にこなした。1978年1月21日、デュランに初黒星を与えたエステバン・デ・ヘススとWBA&WBC王座統一戦を行い12回TKO勝ちで12度目の防衛を達成。WBC世界ライト級王座獲得。


同時期にフェザー級、ジュニアライト級で世界王座に君臨したアレクシス・アルゲリョや、ジュニアウェルター級世界王者として無敵を誇ったアントニオ・セルバンテスとの対戦は、何度も噂に上ったが実現しなかった。
1980年代

ライト級タイトルを返上したデュランは、8試合のノンタイトル戦を挟んだ後の1980年6月20日、2階級上のWBC世界ウェルター級王者シュガー・レイ・レナードに挑戦する。レナードのスピードが勝ると予想されていたが、デュランは天性のボクシングセンスを発揮。2回に右クロスを決めてレナードをぐらつかせ、その後もロープに詰めて接近戦を挑む。レナードの速いパンチにも機敏に反応した。僅差ながら予想外の判定勝ちを収めて2階級制覇を達成する。この勝利に母国パナマは大熱狂。時の大統領が仕向けた大統領専用機で帰国すると、この日を「デュランの日」という祝日に制定される騒ぎとなった。(その後、廃止されている)

しかし、5か月後の11月25日の再戦では徹底的なヒット・アンド・アウェイ戦法を取るレナードにフラストレーションが溜まり、8回に腹痛を訴えて試合放棄同然のTKO負けをした。この試合に対してルイジアナ・ボクシング・コミッションは「不満足な試合内容」を理由に7500ドルの支払いを命じた。ファイトマネー1000万ドルの支払い差し止めも求められたが、プロモーターは支払い済みと語った[1]。このとき放った言葉と共に「ノー・マス(もうたくさんだ)」事件として有名になる。また、この試合をきっかけにデュランのボクシング人生は波乱を迎えた。

1982年1月30日、ウィルフレド・ベニテスのWBC世界スーパーウェルター級タイトルに挑むも判定負け。9月4日のノンタイトル戦でも、格下と見られていたカークランド・ラインにも判定で敗れた。

1983年6月16日、デビー・ムーアの持つWBA世界スーパーウェルター級タイトルに挑んだ時もデュラン不利と見られていた。しかし、デュランは初回から試合のペースを握る。ムーアのパンチを外し、ボディを執拗に攻めた。7回に疲れの見えるムーアに右クロスでダウンを奪うと、続く8回には容赦ない追撃を加えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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