ロベルト・シューマン
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フランスの政治家「ロベール・シューマン」とは別人です。

ロベルト・シューマン
Robert Schumann
アドルフ・フォン・メンツェル(1815年 - 1905年)による肖像画

基本情報
出生名ロベルト・アレクサンダー・シューマン
Robert Alexander Schumann
生誕 (1810-06-08) 1810年6月8日
プロイセン王国ツヴィッカウ
死没 (1856-07-29) 1856年7月29日(46歳没)
プロイセン王国、エンデニヒ(ドイツ語版)
ジャンルロマン派
職業作曲家音楽評論家
活動期間1830年 - 1856年

ロベルト・アレクサンダー・シューマン(ドイツ語: Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、ドイツロマン派を代表する作曲家[1][注釈 1]。ドイツ語発音: [?ro?b?rt][3]に基づきローベルト・シューマンと表記されることもある。

ベートーヴェンシューベルト音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した[4][5]。とくにピアノ曲歌曲において評価が高い[6][7]
概説

ツヴィッカウの裕福な家庭に生まれ、ライプツィヒ大学の法科に進むも、ピアニストをめざしてフリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)に師事する。しかし、指の故障によりピアニストを断念、作曲家となる。ヴィークの娘でピアニストのクララ(1819年 - 1896年)との恋愛と結婚はシューマンの創作活動に多大な影響を及ぼした。文学への造詣も深く、1834年に「新音楽時報」の創刊に携わり、以後10年間にわたって音楽評論活動を行う。このころから精神障害の症状に悩まされるようになる。1844年にライプツィヒからドレスデンへ、1850年にデュッセルドルフへと移住して指揮者としても活動する。この間、子供向けのピアノ曲を作曲するなど教育分野での貢献も残した。1853年にヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)と出会い、「新しい道」と題する論文で若き天才として紹介するが、翌1854年にライン川に投身自殺を図る。救助されたシューマンはボン近郊のエンデニヒの療養所に収容され、2年後の1856年に46歳で死去した[8]
生涯
生い立ち
幼年時代(1810年-1820年)ロベルトの父、アウグスト・シューマン(1773年 - 1826年)

1810年6月8日、プロイセン王国ツヴィッカウで書籍販売・出版業を営んでいたアウグスト・シューマン(1773年 - 1826年)とその妻ヨハンナ(1767年 - 1836年)との子として生まれる[9][1][10]。6月14日に自宅で洗礼を受け、市の書記官と郵便局長が代父を、商人ルッピウスの妻が代母を務めた[10]。ツヴィッカウは2年後にザクセン王国の一部となる[10]

シューマンは5人兄弟の末子であり、兄3人、姉1人があった[9][11][12]シューマンの生家(ツヴィッカウ、現シューマン博物館)

シューマンの両親はもともと南のテューリンゲン地方の出身であり[1]、シューマンの父方の祖父フリードリヒ・ゴットロープ・シューマンは、ライプツィヒの南、ゲーラ近くのエントシュッツ地区の牧師だった[11][12][10]

シューマンの父アウグストは、文学者を志しライプツィヒ大学に学んだ[13]。1795年にツァイツ(de:Zeitz)の外科医の娘ヨハンナ・シュナーベルと結婚[注釈 2]、1799年にロンネブルクで書店を開業し、1807年にツヴィッカウに移った。ツヴィッカウでは書店に併せて出版社を設立し、スコットバイロンの翻訳全集などを出版した。アウグスト自身も中世騎士修道士を題材にした物語を書き、商業的な論文や雑誌の編集もこなした。事業に成功したアウグストは土地の名士となっていた[9][14][11][13][1][12]。アウグストは非常に温厚で誠実な人柄であったとされており、シューマンが音楽の道を志すことも心から賛成していた[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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