ロベルト・エラス
Roberto Heras
基本情報
本名ロベルト・エラス・エルナンデス
Roberto Heras Hernandez
生年月日 (1974-02-01) 1974年2月1日(50歳)
国籍 スペイン
選手情報
所属引退
分野ロードレース
役割選手
特徴クライマー
プロ経歴
1997-2000
2001-2003
2003-2005ケルメ
USポスタル
リベルティ・セグロス
主要レース勝利
ブエルタ・ア・エスパーニャ 2000,2003-2005[1]
カタルーニャ一周 2002
最終更新日
2008年2月28日
ロベルト・エラス(Roberto Heras、1974年2月1日- )は、スペイン・ベハル出身の元自転車競技選手。 1996年にケルメと契約を結んでプロ選手となる。1997年、ブエルタ・ア・エスパーニャに初出場し総合5位となり、その後もブエルタでは、1998年総合6位、1999年総合3位と常に上位へと食い込む。また99年のジロ・デ・イタリアでも総合6位に入っている。 2000年、ツール・ド・フランスに初出場し、総合5位に入る。そして同年のブエルタでは、第14ステージで総合首位に立ち、最後はアンヘル・カセーロに2分33秒の差をつけて、待望の総合優勝を果たした。 山岳コースで力強い走りを見せるエラスは、20世紀終盤から21世紀序盤にかけて、グランツールでは欠かせぬ顔として君臨していく。 2001年、ランス・アームストロング擁するUSポスタルサービスへと移籍。得意の山岳コースで力強い走りを披露して、アームストロングを強力にサポートした。以後2003年までUSポスタルに在籍するが、エラスの力強い走りは、一介のアシスト役としてはもったいないという見方もされるようになり、翌2004年のリベルティ・セグロス移籍に繋がっていく。同年のブエルタにおいて、エラスはイシドロ・ノザル リベルティ・セグロスに移籍した2004年、前年のブエルタで激しい首位争いを演じたノザルもこの年、オンセからリベルティに移籍したことでチームメイトとなるが、今度はノザルのサポートを受け、第12ステージでフロイド・ランディスからマイヨ・オロを奪うと、最後はサンティアゴ・ペレス 2005年、ブエルタ連覇記録としてはトニー・ロミンゲルと並ぶ3連覇、そして最多優勝記録としてはロミンゲルを上回る4回目の制覇を期すエラスは、序盤からデニス・メンショフと総合首位争いを繰り広げ、第6ステージでは総合首位に立った。第9ステージではメンショフにマイヨ・オロを奪われるものの、第15ステージで再び奪取。その後はメンショフを引き離し、最後は4分36秒の差をメンショフにつけ、ついに史上最多のブエルタ4回目の制覇を果たしたかに思われた。 ところが、エラスの体内からエリスロポエチン(EPO)が検出され、その結果エラスは失格。メンショフの繰り上がり優勝となった。その後、禁止薬物を使用し、発覚した選手は、UCIプロツアーチームには2年間在籍できないというルールによりエラスは事実上の引退状態に追い込まれたが、2007年末、正式に引退を表明した。 2012年12月21日、スペイン最高裁判所は、ドーピング検査の手続きに不適切があった、というエラスの訴えを認め、2005年のブエルタ優勝の剥奪処分を取り消し、再びエラスを優勝とする判決を下した[1]。
経歴
グランツールで好成績
ブエルタ連覇への足跡
ブエルタ歴代最多優勝を達成
脚注^ a b ⇒検査手順不備によりエラスの処分が撤回 2005年ブエルタ総合優勝のタイトルが戻る - シクロワイアード2012年12月22日付
外部リンク
⇒ロベルト・エラス - サイクリングアーカイヴス(英語)
表
話
編
歴
ブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝者
1935 フスターフ・デロール
1936 フスターフ・デロール
1937 スペイン内戦
1938 スペイン内戦
1939 スペイン内戦
1940 スペイン内戦
1941 フリアン・ベレンデロ
1942 フリアン・ベレンデロ
1943 第二次世界大戦
1944 第二次世界大戦
1945 デリオ・ロドリゲス
1946 ダルマシオ・ランガリカ
1947 エドワード・ファン・ダイク
1948 ベルナルド・ルイス
1949 中止
1950 エミリオ・ロドリゲス
1951 未開催
1952 未開催
1953 未開催
1954 未開催
1955 ジャン・ドット
1956 アンジェロ・コンテルノ
1957 ヘスス・ロロニョ
1958 ジャン・スタブリンスキ