「ロベルト・アルマー」とは別人です。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はアロマー、第二姓(母方の姓)はベラスケスです。
ロベルト・アロマー
Roberto Alomar2011年7月23日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 プエルトリコ自治連邦区ポンセ
生年月日 (1968-02-05) 1968年2月5日(56歳)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション二塁手
プロ入り1985年 アマチュアFA
初出場1988年4月22日
最終出場2004年9月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
サンディエゴ・パドレス (1988 - 1990)
トロント・ブルージェイズ (1991 - 1995)
ボルチモア・オリオールズ (1996 - 1998)
クリーブランド・インディアンス (1999 - 2001)
ニューヨーク・メッツ (2002 - 2003)
シカゴ・ホワイトソックス (2003)
アリゾナ・ダイヤモンドバックス (2004)
シカゴ・ホワイトソックス (2004)
カナダ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2010年
アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2011年
得票率90.0%
選出方法BBWAA選出
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。
ロベルト・アロマー・ベラスケス(Roberto Alomar Velazquez, 1968年2月5日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手(二塁手)。右投両打。
父はサンディー・アロマー・シニア、兄はサンディー・アロマー・ジュニア。 1985年に兄が所属するサンディエゴ・パドレスに入団。 1988年4月22日にメジャーデビューし、レギュラーに定着。当時父のシニアもコーチとしてチームに所属しており、9月に兄もメジャー昇格を果たしたことで父子3人揃い踏みとなった。この年、145試合に出場し、24盗塁を記録し、新人王の投票では5位に入った。 1990年12月5日にジョー・カーターとともにトロント・ブルージェイズへ移籍(交換要員はフレッド・マグリフ、トニー・フェルナンデス)。 1992年には打率.310を記録。初めて3割の大台を上回った。打率、105得点、49盗塁はチーム1位となり[1]、シルバースラッガー賞を初受賞。チームはプレーオフに進出し、アトランタ・ブレーブスを破り、球団初のワールドシリーズ優勝を果たした。 1993年もワールドシリーズ優勝を果たし、連覇に貢献。ブルージェイズ在籍中は本拠地のスカイドーム併設のホテルに居住していた[2]。 1995年オフにフリーエージェント(FA)となり、ボルチモア・オリオールズへ移籍し、カル・リプケン・ジュニアと二遊間を形成した。1996年は打率.328、1997年は打率.333と2年連続で自己最高を更新した。1998年は打率.282と3割を下回ったが、オールスターゲームでMVPを受賞し、前年の兄に続いての受賞となった[3]。 しかし、1996年9月27日のブルージェイズ戦で判定に憤り、球審のジョン・ハーシュベック
経歴
1999年から2001年まで在籍したクリーブランド・インディアンスでは遊撃手のオマー・ビスケルと鉄壁の二遊間を組み、2人とも3年連続でゴールドグラブ賞を受賞した。1999年と2000年の2年連続でシルバースラッガー賞を受賞。2001年は受賞を逃したものの、打率は自己最高の.336を記録した。
その後2001年12月11日にニューヨーク・メッツへトレードで移籍。移籍1年目の2002年7月26日にスイッチヒッターとして史上7人目となる通算2500本安打を達成するも[2]、打率は前年より7分近く下げデビュー年以来の低水準に終わった。2003年も前年に続き低迷。7月1日にシカゴ・ホワイトソックスへ移籍した。7月は打率.301を記録するも、8月は打率.230、9月は打率.221で[5]、チーム地区優勝を逃す一因となった[2]。
2004年1月6日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスは買い手市場を生かして1年総額100万ドルの低年俸で契約[6]。