ロプノール
ロプノールの衛星画像
中央下の耳のような形がロプノールの干上がった湖床。画面左下ないし下方が北。
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(新疆ウイグル自治区・地形図)
中国語
繁体字 羅布泊
発音記号
標準中国語
漢語?音Luobu P?
ウェード式Lo2-pu4 P'o1
IPA[lw?̌pû p??́]
別名
繁体字 羅布?爾
簡体字 ?布??
発音記号
標準中国語
漢語?音Luobu Nao'?r
ウェード式Lo2-pu4 Nao4-'erh3
IPA[lw?̌pû n?̂??̀?]
モンゴル語
モンゴル語??? ?????
Лоб Нуур
ウイグル語
ウイグル語 ??????
発音記号
新式Lopnur
旧式Lopnur
キリル文字Лопнур
ロプノールあるいはロブノール(ドイツ語: Lop Nor[注釈 1])は、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部に、かつて存在した内陸湖で、「さまよえる湖」として知られている[1]。この湖があったのは、現在の中国・新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州チャルクリク県であり、隣接するロプノール県ではない。
ロプノールには、タリム盆地を取り囲む山脈の雪解け水を集めるタリム川(正確にはタリム川の分流)とチャルチャン川が流れ込むが、湖から流れ出る川はない。つまりロプノールは、内陸河川であるタリム川の末端湖のひとつであり、湖水は強い陽射しで蒸発するか地中に浸透して消えていくため、次第に塩分が蓄積して塩湖となった。紀元前1世紀の頃にはまだ大きな湖であったという記録が残されているが、4世紀前後に干上がったと見られている。 タリム盆地はヒマラヤ造山運動に伴って形成された地形であり、今からおよそ2万年前の最後の氷期から現在の間氷期へと遷り変わる頃には、盆地のほぼ全域がカスピ海のような極めて広大な湖となったが、その後気候が温暖化するにつれて次第に水が失われ、大部分が砂漠になったと考えられている[2]。 この説に従うなら、ロプノールなどタリム盆地に散在する湖沼は、その湖の最後の名残ということになる。 1901年に中央アジア探検家によって、「ロプノールの周辺地域は標高差がわずかしかなく、堆積や侵食作用などによってタリム川の流路が大きく変動するために、湖の位置が南北に移動するのだ。ロプノールはいつかきっと元の位置に戻ってくる」とする「さまよえる湖」説が提示され、それからわずか20年後の1921年に、予言通りタリム川の流れが変わって湖が復活したことから広く知られるようになった[1]。 復活後は、上流の天山山脈などの降雪降雨量によって流れ込む水量が変わるため、消長を繰り返しながらも20世紀半ばまでは水をたたえていた。 しかし、タリム川にダムが建設されたことなどもあって、現在は再び完全に干上がっている。衛星画像では乾いた湖床が人間の耳のような形に見え、湖心をかすめるように省道235号線が貫いている。 古来中国で西域と呼ばれる地域にあるロプノールは、「塩沢」あるいは「蒲昌海」などという名で知られ、紀元前1世紀頃の漢の時代には、「縦横ともに300里の鹹湖(かんこ)で、冬も夏も水量が変わらない」と『漢書西域伝序』に記された広大な湖であった。 西岸には都市国家・楼蘭が栄え、シルクロードの要衝となっていた。 しかし、3世紀頃からこの地域一帯の乾燥化が進んだと見られており、豊富な水を失った楼蘭は4世紀以降急速に衰退していった。ケリヤニヤホータン このためシルクロードのいわゆる「オアシスの道」も、楼蘭を経由するルートは往来が困難になり、唐の時代までには敦煌または少し手前の安西から北上・西進してトルファンを通り、天山山脈南麓のコルラへ出るルートが中心となった。 こうして楼蘭とロプノールはいつしか流砂の中に消えてゆき、ついにはどこにあったのかもわからない伝説上の存在となった。13世紀に元の都を訪れたヴェネツィアの商人マルコ・ポーロは、カシュガルから西域南道を辿り、湖の南縁をかすめるルートで敦煌に達したとされているが、『東方見聞録』の中でロプノールには全く言及していない。 1876年から1877年にかけて内陸アジアの冒険旅行を敢行したロシア軍大佐ニコライ・プルジェヴァリスキーは、タリム川の下流が南東ないし南に向かって流れており、砂漠の南部にカラ・ブランとカラ・コシュンという2つの湖を形成しているのを発見した。これらの湖は、中国の古文書などから推定されるロプノールの位置より緯度にしておよそ1度南にあったが、プルジェヴァリスキーはこれがロプノールであると主張した。 この発見を賞賛する声がある一方、「シルクロード」という呼称を最初に提唱したドイツの地理学者リヒトホーフェンは、これらが淡水湖であることから、まだ生まれて間もない新しい湖に違いなく、塩湖であるとされるロプノールはタリム川の東へ向かう支流の先にあるはずだから、どこかで支流を見落としたのだろうと指摘した。 しかし、「川を渡るのはいつも苦労の種だったから、もしそのような支流があれば見逃すはずがない」とプルジェヴァリスキーは反論し、決着はつかなかった。フォルケ・ベリイマンによるロプノール周辺の地図(1935年)
概要
歴史
「さまよえる湖」
(于?)カルギリク且末ヤルカンド
(莎車)イェンギサール若羌カシュガル陽関巴楚ロプノール