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ロブ・ヴァン・ダム
プロフィール
リングネームロブ・ヴァン・ダム
ロビーV
本名ロバート・アレクサンダー・ザットコウスキー
ニックネームRVD
ミスター・マンデーナイト
身長183cm
体重107kg
誕生日 (1970-12-18) 1970年12月18日(53歳)
出身地 アメリカ合衆国
ミシガン州
バトルクリーク
スポーツ歴空手
トレーナーザ・シーク
サブゥー
デビュー1990年
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ロブ・ヴァン・ダム(Rob Van Dam、1970年[1]12月18日 - )は、アメリカ合衆国の男性プロレスラー。ミシガン州バトルクリーク出身。本名、ロバート・ザットコウスキー(Robert Alexander Szatkowski)。頭文字を取ってRVDの愛称で知られる。
また選手紹介や勝利者紹介などで自分の名前がコールされる(または自分でコールする)際に、両手の親指で自身を指差すポーズは非常にポピュラーであり[2]、ファンからはその動きに合わせて"Rob Van Dam(またはRVD)"のチャント(コール、掛け声)の大合唱が起きる。 デトロイトでザ・シークのコーチを受け、1990年にプロレスラーデビューを果たす。 1991年、USWA(United States Wrestling Association)やICWA(International Championship Wrestling Alliance)などインディー団体に参戦し、12月にはジャン=クロード・ヴァン・ダムの容姿やアクションが似ていたことからロン・スリンカー
来歴
キャリア初期
1992年、WCWと契約を交わし入団。ロビーV(Robby V)のリングネームで活動し、1993年1月11日にパット・ローズとのシングルマッチでデビューし、勝利した。1993年には全日本プロレスに参戦するため初来日。全日本プロレスに常連参戦している外国人レスラーたちと組んで出場するも結果を出す事ができずに帰国した。WCW復帰後はハウスショーでの出場が中心となり、1994年に解雇となった。
WCW解雇後、リングネームをロブ・ヴァン・ダムへと戻してNWC(National Wrestling Conference)、ASW(All-Star Wrestling)に参戦する一方で、全日本プロレスの常連として定期参戦。1995年10月1日には世界ジュニアヘビー級王座を保持するダニー・クロファットに挑戦するチャンスを与えられるが、ベルトを奪取するに至らなかった。11月には世界最強タッグ決定リーグ戦にジョニー・スミスと組んでエントリーするも2点という結果に終わっている。 1996年、ロブ・ヴァン・ダムの知名度を全米中に広めるきっかけとなるハードコア・レスリングを信条とする団体であるECWに参戦。1月5日のイベント、House Partyにてトップレスラーであるアクセル・ロッテンを相手にデビュー戦を行い金星を得た。同月27日、サブゥーとのシングルマッチで反則負けとなるが、サブゥーを尊敬するようになり、ライバルでありながら師弟関係を築く事になる。5月11日、A Matter of Respect 1996
ECW
9月13日、Unlucky Lotteryにてサブゥーとの直接対決にて敗戦となるが、試合後にお互いを認め合いタッグを結成。ECW世界タッグ王座を巡ってイリミネーターズ(ジョン・クローナス & ペリー・サターン)、ギャングスターズ(ニュー・ジャック & ムスタファ・サイード)と3Wayマッチやデスマッチなどで争うがベルトを奪取するに至らなかった。
1997年1月、サブゥーと共に全日本プロレスに参戦。空中戦を存分に行って観客を魅了。連勝する活躍を見せて25日にはアジアタッグ王座を保持する大森隆男 & 秋山準に挑戦するが敗戦となった。
5月にはWWFへと未契約ながらも参戦し、ジェリー・ローラーとのタッグで活躍。6月16日にはWWF世界タッグ王座トーナメント決勝にてザ・ヘッドバンガーズ(モッシュ & スラッシャー)と対戦するが敗戦した。
1998年4月4日、ECW世界TV王座を保持するバンバン・ビガロから勝利してECWでの初の王座戴冠を果たす。このベルトに関しては故障する2000年3月まで23か月間保持する記録を樹立。6月27日にはサブゥーとのタッグでクリス・キャンディード & ランス・ストームからECW世界タッグ王座を奪取して二冠王になる。10月24日にはダッドリー・ボーイズ(ババ・レイ・ダッドリー & ディーボン・ダッドリー)からECW世界タッグ王座を奪われるが、12月13日に日本の後楽園ホールで開催されたECW & FMWの共同イベントにて奪い返し、2度目の戴冠となった。
1999年以降、ECW世界TV王座を死守し続けていたが2000年3月に負傷欠場して王座を返還。5月に復帰してからは王座戦線には絡まかったもののストーリーラインを中心にECWを支え続け、2001年1月13日、Guilty As Charged 2001のジェリー・リンとのシングルマッチを最後にECWは崩壊を迎えた。 2001年、ECW崩壊後の2月には全日本プロレスにスポット参戦し、7月よりWWFと契約を交わし入団。WCWとECWの連合軍、アライアンスの一員としてヒールでの活動であったが、レスリングスタイルが観客から支持されて人気は高かった。ECWでの経験もあってかWWEハードコア王座で大活躍し、アライアンスの中心人物の一人として11月18日のPPV、Survivor Series 2001では最終決戦となるエリミネーションマッチの5人のうちの一人として選ばれた。 アライアンス崩壊後、ベビーフェイスに転向。RAWとSmackDown!へとブランドを分割してRAWに所属し、IC王座として長期保持した。2004年3月21日にはドラフトでSmackDown!に移籍し、当時のパートナーのブッカーTと共に移籍したがブッカーTはSmackDown!に馴染めなかったという理由からヒールターンし、一時抗争をする。2005年1月27日には膝の手術を行い長期欠場する事になる。
WWF / WWE