ロビン・ギブ
Robin Gibb
2008年アラブ首長国連邦ドバイにて
基本情報
出生名Robin Hugh Gibb
生誕 (1949-12-22) 1949年12月22日
マン島、ダグラス
出身地Rised in:
イングランド、マンチェスター
Moved to:
オーストラリア、ブリスベン
死没 (2012-05-20) 2012年5月20日(62歳没)
イングランド、ロンドン
ジャンルディスコ、ポップ、ロック、ソフトロック
職業シンガーソングライター
担当楽器ボーカル、ピアノ、ヴァイオリン、ギター
活動期間1958年 - 2012年
共同作業者ビージーズ
公式サイト ⇒Official website
ロビン・ギブ(英: Robin Gibb、1949年12月22日 - 2012年5月20日)は、マン島出身のシンガーソングライターである。2人の兄弟(バリー・ギブ、モーリス・ギブ)と結成したビージーズのメンバーとして知られている。
彼ら3人はイギリス人の両親の下で生まれ、オーストラリアでデビューし、イングランドに戻ってから成功した。ビージーズは1億枚以上レコードが売れた、世界で最も成功したポップグループの一つである[1]。 ロビンはマン島で父ヒュー・ギブ(1916?92)と母バーバラ(1920?2016)の下で生を受け、モーリス・ギブと双子(二卵性)だった。なお、モーリスより35分先に生まれた。ロビンは5人兄弟で、1人の姉(レズリー 1945年生)と3人の兄弟(バリー 1946年生、モーリス 1949年生、アンディ 1958年生)がいる。家族とともに1958年にはオーストラリアのブリスベンに移ってから、彼らの音楽キャリアがスタートした。1967年にイングランドへ戻ってロバート・スティグウッド
出自
ソロ・キャリア詳細は「ビージーズ」を参照
ロビンは、1960年代後半のビージーズ第一期黄金期では、常に兄バリー・ギブとリードボーカルの役割を競っていた。そして、彼の曲「ランプの明り」(Lamplight)がバリーの曲「若葉のころ」(First of May) のB面に追いやられた後、ロビンはグループを去りソロ・キャリアを開始した。
ソロ活動では、最初に出したシングル「救いの鐘」(Saved by the Bell) がイギリスで最高2位を記録する成功を収めた[2](100万枚売れてゴールドディスクと認定された[3])が、アルバム『救いの鐘』(Robin’s Reign) はセールスではあまり成功しなかった。その後、ビージーズに復帰して 1970年に出したシングル「ロンリー・デイ」(Lonely Days) は彼らにとってアメリカで最高順位を記録したヒットとなった[4]。翌年に出したシングル「傷心の日々
」(How Can You Mend a Broken Heart) はアメリカで最高1位を記録したが、その後彼らの勢いは弱まり始めた。1974年にアリフ・マーディンよりプロデュースを受け、ブルー・アイド・ソウル・スタイルへ転換したことで、1970年代後半のディスコ自体による彼らの大成功時代へつながった[5]。コンセプト・アルバム『Sesame Street Fever』で、ロビンはタイトル・トラック他数曲をセサミストリートのパペット達と歌った。
グループで活動している間も、ロビンはソロ活動を進めていた。1980年代には、3つのソロ・アルバム(『How Old Are You』『Secret Agent』『Walls Have Eyes』)を発表し、ヨーロッパで成功を収めた。1984年に発売したシングル「恋するボーイズ」(Boys Do Fall in Love) はビルボードTop40にチャートインした。
彼の双子の兄弟モーリスの急死と同じ週である2003年1月27日に、ロビンの次のソロ・アルバム『Magnet』をドイツで発売した。モーリスの死を受け、ロビンとバリーはしばらくビージーズを解散することにした。しかし、2009年後半になって、ロビンとバリーはビージーズを再結成すると発表した。
ロビンはイギリスのテレビ番組「The Dame Edna Treatment」のオープニングテーマを歌った。
2008年5月18日、ロビンはオーストラリア生れの英国のDJであるアラン・フリーマンのトリビュート曲「Alan Freeman Days」を発表した。この曲はダウンロード販売のみだった。同年12月、「Wing and a Prayer」もダウンロード販売のみでリリースされたが、この曲は1970年にリリース予定だったがリリースされなかった曲「Sing Slowly Sisters」のメロディーだった[6]。1週間後、またダウンロード販売で曲「Ellan Vannin (Home Coming Mix)」を出した[7]。
2008年にリリース予定だったソロ・アルバム『50 St Catherine's Drive』は、リリースされなかった。2009年8月に、そのアルバムからの50秒のクリップ「Instant Love」が発表された。それは彼の息子ロビン=ジョンとの共演だった[8]。その後、ロビンの死から2年たった2014年にリリースされた。 2003年8月にリリース予定だったシングル「My Lover's Prayer」(ビージーズの1997年の曲のカヴァー)は、ロビンとウォンヤ・モリス
コラボレーション
2005年1月、ロビンは兄バリーやその他のアーティストと共に「One World Project」という名のプロジェクトに参加した。このプロジェクトはアジアの津波被害を救済するための慈善シングル「Grief Never Grows Old」をリリースした。なお、このプロジェクトにはボーイ・ジョージ、スティーヴ・ウィンウッド、ジョン・アンダーソン、リック・ウェイクマン、クリフ・リチャード、ビル・ワイマン、アメリカ、ケニー・ジョーンズ、シカゴ、ブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)、ラッセル・ワトソンとデイヴィ・スピラーンが参加した。
2005年6月、ロビンはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われたXファクターのコンサートで、G4と共にビージーズの「若葉のころ」を演奏した。このパフォーマンスは録音され、G4 feat Robin Gibb名義で2005年12月にシングルとして販売された。このトラックは全英アルバムチャートで最高6位を記録するアルバム『G4 & Friends』[10]にも収録された。
2006年11月にロビンが出したクリスマス・アルバム『Robin Gibb ? My Favourite Carols』は、ロンドンの楽団 ⇒The Serlo Consort とのコラボレーションだった。このアルバムにはロビンが書いた新曲「Mother of Love」が含まれており、この曲はダウンロード・シングルとしてヨーロッパで発売された。この曲は2003年1月に亡くなった双子の弟モーリス・ギブにインスパイアされたもので、その売上はブラーマ・クマリス[11]に寄付された。
2009年1月、ラス・ジョーンズとロブ・ブライドン[12]、そしてトム・ジョーンズとロビンが共演した曲「アイランズ・イン・ザ・ストリーム」(Islands in the Stream)(ビージーズの3人が1983年に制作した曲)が発売され、全英シングルチャート1位に輝いた[13]。