ロビンソン・カノ
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ロビンソン・カノー
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はカノ、第二姓(母方の)はメルセデスです。

ロビンソン・カノ
Robinson Canoメキシコシティ・レッドデビルズ
ニューヨーク・メッツ時代
(2022年4月8日)
基本情報
国籍 ドミニカ共和国
アメリカ合衆国
二重国籍[1]
出身地 ドミニカ共和国
サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス
生年月日 (1982-10-22) 1982年10月22日(41歳)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション二塁手
プロ入り2001年 アマチュアFA
初出場2005年5月3日
年俸$24,000,000(2023年)[2]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


サンペドロ・アポストル高等学校

ニューヨーク・ヤンキース (2005 - 2013)

シアトル・マリナーズ (2014 - 2018)

ニューヨーク・メッツ (2019 - 2020, 2022)

サンディエゴ・パドレス (2022)

アトランタ・ブレーブス (2022)

メキシコシティ・レッドデビルズ (2024 - )

国際大会
代表チーム ドミニカ共和国
WBC2009年2013年2017年2023年
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

獲得メダル
男子 野球
ドミニカ共和国
ワールド・ベースボール・クラシック
2013

ロビンソン・ホセ・カノ・メルセデス(Robinson Jose Cano Mercedes,[注釈 1] 1982年10月22日 - )は、ドミニカ共和国サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス出身のプロ野球選手二塁手)。右投左打。リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル(メキシカンリーグ)メキシコシティ・レッドデビルズ所属。愛称はドンチューノー[5]
経歴
プロ入り前

父ホセ・カノ(英語版)も1980年にヤンキースとアマチュアFAで契約し、1989年にヒューストン・アストロズで6試合に登板した元投手である[6]。父はジャッキー・ロビンソンにちなんで息子に「ロビンソン」と名付けた[7]。自身はドミニカ共和国で育ち、サンペドロ・デ・マコリス市サンペドロ・アポストル高校で野球とバスケットボールの選手として活躍した。
プロ入りとヤンキース時代

2001年に同校卒業後、父と同じニューヨーク・ヤンキースとプロ契約を結び、プロ入りを果たした。マイナーリーグで徐々に力をつけていったが、シーズン打率3割やOPS8割を超えるような目立った活躍はなかった。

2005年はAAA級チームで24試合の出場で打率.333、OPS.942などの好成績を残し、5月3日にメジャー初昇格を果たす。同年、3年連続盗塁王に輝いた事もあるトニー・ウォマックから二塁手のポジション奪取に成功し、打率.297、14本塁打、62打点を記録。特に、チームの快進撃ともなった9月攻勢で活躍し、週間MVPや9月のルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞した。初めてのプレーオフとなるディビジョンシリーズでも全5試合にフル出場し、打率.263、5打点、3二塁打などと一定の活躍を見せた。同シーズンのアメリカンリーグ新人王投票ではヒューストン・ストリートアスレチックス)に次ぐ2位に入った。

2006年オールスターゲームの投票では二塁手部門で1位で選出されたが、の違和感から故障者リストに登録され、辞退した。しかし、怪我から復帰した8月8日以降の成績では打率、二塁打数、打点でリーグトップであった。欠場の影響で欠けていた規定打席にも9月末に到達し、首位打者争いに絡む活躍を見せた。また、9月のプレイヤー・オブ・ザ・マンスにも輝く。最終的に残した打率.342は同僚デレク・ジーターに1厘差に迫るリーグ3位の数字で、二塁打数もリーグ2位であった。オフのMVP投票では22位に入った。また、シルバースラッガー賞を受賞している。

2007年ロジャー・クレメンスがヤンキースに復帰する可能性を作るため、背番号を(クレメンスが去った後カノが付けていた)22番から24番に変更した。また、体重もメジャーデビュー時は80kgも無かったが、92kgに増やした。同年シーズンは前半こそ不調に陥ったが、最終的に打率3割を残し、本塁打打点で自己最多を記録した。

2008年2月7日、球団と調停を回避し4年総額3000万ドルで契約を延長した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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