ロバート・A・ハインライン
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ロバート・A・ハインライン
Robert A. Heinlein
1976年のワールドコンでサインをするハインライン
ペンネームアンスン・マクドナルド、ライル・モンロー、John Riverside、Caleb Saunders、Simon York
誕生ロバート・アンスン・ハインライン
Robert Anson Heinlein
(1907-07-07) 1907年7月7日
ミズーリ州バトラー
死没 (1988-05-08) 1988年5月8日(80歳没)
カリフォルニア州カーメル
職業SF作家
国籍アメリカ合衆国
活動期間1939年 - 1988年
代表作『夏への扉(1957 年)
宇宙の戦士』(1959年)
異星の客』(1961年)
月は無慈悲な夜の女王』(1966年)など
主な受賞歴ヒューゴー賞
デビュー作「生命線」
影響を受けたもの

H・G・ウェルズエドガー・ライス・バローズラドヤード・キップリングマーク・トウェインアイン・ランド

影響を与えたもの

アレン・スティール、スパイダー・ロビンスン、ジョージ・R・R・マーティンラリー・ニーヴンジェリー・パーネルトム・クランシージョン・ヴァーリイニール・ゲイマン新海誠ロボットアニメ

署名
ウィキポータル 文学
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ロバート・アンスン・ハインライン(Robert Anson Heinlein、1907年7月7日 - 1988年5月8日)は、アメリカSF作家SF界を代表する作家の一人で「SF界の長老(the dean of science fiction writers)」とも呼ばれ[1]、影響を受けたSF作家も数多いが、物議を醸した作品も多い。科学技術の考証を高水準にし、SFというジャンルの文学的質を上げることにも貢献した。他のSF作家がSF雑誌に作品を載せるなか、ハインラインは1940年代から自分の作品を「サタデー・イブニング・ポスト」等の一般紙に載せた。この結果としてSFの大衆化が進んだのは、ハインラインの功績の一つである。SF小説でベストセラーを産んだ最初の作家でもある。アイザック・アシモフアーサー・C・クラークと並んで、世界SF界のビッグスリーとも呼ばれていた[2][3]。アンスン・マクドナルド(Anson MacDonald)、ライル・モンロー(Lyle Monroe)などの名義で執筆していた時期もある(いずれも中・短編)。

SF短編小説の名手でもあり、アスタウンディング誌の編集長ジョン・W・キャンベルが鍛えた作家の1人である。但し、ハインライン自身はキャンベルの影響を否定している。

初期には未来史シリーズなど、科学小説としてのSFを書いていたが次第に社会性を強め、『宇宙の戦士』では軍国主義を賛美する兵士の描写があったことから右翼と呼ばれ、一方の社会主義者の名残が表れている『月は無慈悲な夜の女王』では左翼と呼ばれるなど多彩な顔を持った。中でも宗教ポリアモリーを扱った『異星の客』の反響は大きく、ヒッピーの経典と崇められ、ファンが分かれたという。『異星の客』中の「グロク(grok)」という造語が『オックスフォード英語辞典』に掲載されたり、更にはマンソン・ファミリーが実際のカルト活動で『異星の客』中の宗教をまねたりもした。

『宇宙の戦士』『ダブル・スター(太陽系帝国の危機)』『異星の客』『月は無慈悲な夜の女王』でヒューゴー賞を計4回受賞(いずれも長編小説部門)。アメリカSFファンタジー作家協会は1回目のグランド・マスター賞をハインラインに授与した。

ロマンティックなタイム・トラベル物『夏への扉』は特に日本において人気の高い作品であり、SFファンのオールタイム・ベスト投票では、度々ベスト1作品になっている。しかしアメリカにおいては『月は無慈悲な夜の女王』と『異星の客』がクローズアップされることが多く『夏への扉』は日本での限定的な人気にとどまっている。
生涯海軍兵学校時代のハインライン(1929年)
誕生と幼少期

1907年7月7日ミズーリ州バトラーで、ドイツ系の家庭に生まれる[4]カンザスシティで育つ[5]。この時代のこの地方の価値観(ハインラインはバイブル・ベルトと呼んだ)が作品に強く影響しており、特に晩年の『愛に時間を』や『落日の彼方に向けて』の設定や雰囲気に反映されている。しかし、最盛期の作品ではそういった価値観や道徳観を打破しようとする傾向があった。
海軍時代

軍隊もハインラインに大きな影響を与えた。生涯を通じて忠誠心、リーダーシップといった理想を信じたのも軍隊の影響である。1925年アナポリス海軍兵学校に入学。1929年に卒業するとアメリカ海軍の士官となった。1931年、空母レキシントン (CV-2) に乗る。このころ無線通信に取り組み、さらに実用化されたばかりの航空機にも取り組んだ。当時の艦長アーネスト・キングは、第二次世界大戦期にはアメリカ海軍作戦部長になっている。後にハインラインはアメリカ海軍初の現代的空母の艦長だったアーネスト・キングについて、軍事史家から頻繁にインタビューを受けている。1933年から1934年まで駆逐艦 USS Roper (DD-147) に勤務。その間に中尉に昇進している。兄弟のローレンス・ハインラインは陸軍、空軍、ミズーリ州軍に勤務し、少将となっている[6]

1929年、カンザスシティ出身の女性とロサンゼルスで結婚[7]。しかし、1年で破局した[4]。1932年には2度目の結婚をしている。このときの相手は政治的に過激な思想を持っており、アイザック・アシモフによればこのころのハインラインは妻に影響され「激しい自由主義者」だったと記している[8]
カリフォルニアへ

1934年結核を患い、海軍を退役。長い入院生活の中でウォーターベッドを思いつき、後にそれについて詳細に小説に書いている。このため、ハインラインの小説が先例となって、ウォーターベッドの特許は成立しなかった[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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