ロバート・ヴェンチューリ
生誕1925年6月25日
ペンシルベニア州フィラデルフィア
死没 (2018-09-18) 2018年9月18日(93歳没)
ペンシルベニア州フィラデルフィア
国籍 アメリカ合衆国
出身校プリンストン大学
職業建築家
配偶者デニス・スコット・ブラウン
受賞プリツカー賞(1991年)
AIAゴールドメダル(2016年)
所属ヴェンチューリ・スコット・ブラウン・アンド・アソシエーツ
建築物母の家
著作建築の多様性と対立性
ラスベガス
母の家
ロバート・チャールズ・ヴェンチューリ・ジュニア(Robert Charles Venturi Jr. 1925年6月25日 - 2018年9月18日)は、アメリカ合衆国の建築家。ヴェンチューリ・スコット・ブラウン・アンド・アソシエイツ事務所の創立者であり、20世紀を代表する建築家のひとりとして知られる。
ヴェンチューリは、妻であり仕事上のパートナーでもあるデニス・スコット・ブラウン(英語版)とともに、建築家・プランナー・学生が建築やアメリカの建築環境について経験し、考える手段をかたち作ることに貢献した。彼らの建築・計画・論考・教育はまた、建築に関する言説の拡大に寄与した。1991年、建築家としてプリツカー賞を受賞した。彼はパートナーであるスコット・ブラウンを受賞者に加えるよう求めたものの、賞は単独のものとなった。後に、女性建築家のグループが彼女の名前を賞に遡って加えようと試みたが、審査員により拒否された[1][2][3]。
主著『建築の多様性と対立性』(Complexity and Contradiction in Architecture、1966年)、『ラスベガス』(Learning from Las Vegas、共著 1972年)などにおいて、禁欲的に装飾を否定したモダニズム建築を批判し、ポストモダンを提唱した。またミース・ファン・デル・ローエの標語 "Less is more" (少ないほど、豊かである)を "Less is a bore'"(少ないほど、退屈である)と皮肉った。スコット・ブラウンとともにフィラデルフィアに在住した。 フィラデルフィアにて、父ロバート・ヴェンチューリ・シニア、母ヴァンナ・ヴェンチューリのもと誕生した。クエーカー教徒として育てられる[4]。ペンシルベニア州メリオン
生い立ち・経歴
1959年から1967年までペンシルベニア大学に職を得て、カーンのティーチング・アシスタント、講師、のちに准教授として勤務する。1960年、同僚教員であった建築家、プランナーのデニス・スコット・ブラウン(英語版)と知り合う。同大学を退いたのちイェール建築学校で教鞭をとり、2003年にはハーバード大学デザイン大学院でスコット・ブラウンとともに客員講師を務めた。2018年9月18日にアルツハイマー病の合併症で死去[8]。享年93歳。 ヴェンチューリは、モダニズム建築のいくつかの前提に疑問を投げかけた最初の建築家のひとりであり、不注意に機能主義的で、象徴的な意味において空虚である建築を趣とする近代建築運動に対する、論議を醸す批判者となった。1966年に「穏やかなマニフェスト(gentle manifesto)」として『建築の多様性と対立性』(Complexity and Contradiction in Architecture)を上梓する。ヴィンセント・スカーリーは同書を建築理論について書かれた本としてはル・コルビュジエの『建築をめざして』以来の名著であると評価した。
建築理論