ロバート・ルイス・スティーヴンソン
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ロバート・ルイス・スティーヴンソン
Robert Louis Stevenson

誕生ロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン
Robert Louis Balfour Stevenson
(1850-11-13) 1850年11月13日
スコットランド・エディンバラ
死没 (1894-12-03) 1894年12月3日(44歳没)
サモアアピア・バイリマ
職業小説家
国籍 イギリス
ジャンル児童文学
冒険小説
代表作「宝島1883年
ジキル博士とハイド氏1886年
ウィキポータル 文学
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ロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson、1850年11月13日 - 1894年12月3日)は、イギリススコットランドエディンバラ生まれの小説家詩人エッセイストである。代表作に冒険小説宝島』『ジキル博士とハイド氏』など。出生時の名はロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン(Robert Lewis Balfour Stevenson)。「スティーヴンスン」「スチーブンソン」とも表記される。

幼時に乳母から聖書やスコットランドの歴史物語を聞き、詩や小説に親しんだ。生涯結核と闘いながら、幻想的で寓意に満ちた小説を書いた。
生涯

父トーマス、祖父ロバートは共に灯台建設を専門とする技術者だった[注釈 1]。母はマーガレット・バルフォア。スティーヴンソンはエディンバラ・アカデミーを経て、1867年にエディンバラ大学の工学科に入学し、父の跡を継ぐことを期待されたが、1871年には法科に転科。1873年に療養のためフランスに滞在。1875年に弁護士の資格を得た。出生時の名前はロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン(Robert Lewis Balfour Stevenson)だったが、18歳の時に名前の間に入っていたバルフォアを外し、次いでセカンドネームの「Lewis」を「Louis」に変更した。以後、名前を略す際にはRLSと名乗る。生まれつき病弱で、若い頃に罹った結核のため、各地を転地療養しながら作品を執筆した。妻ファニー・オズボーン(1876年)

処女作1874年に雑誌に発表したエッセイ『南欧に転地を命ぜられて』(『若い人々のために』所収)。療養先で、レズリー・スティーヴンの紹介でジャーナリストのウィリアム・アーネスト・ヘンリー(英語版)と知り合い、1877年からヘンリーの編集する『ロンドン・マガジン』 (The London Magazine) に『新アラビア夜話』を連載。1877年パリで後に妻となるアメリカ人ファニー・オズボーンと出会う。ファニーは10歳年上で既婚で2人の子どもがいたが、1879年に夫が病気を患い、離婚。翌年5月サンフランシスコでスティーヴンソンと結婚する。この頃、1876年にフランスの運河をカヌーで旅行した時の経験による『内陸の旅人(内地の船旅)』(1878年)、及び『驢馬の旅(旅は驢馬をつれて)』(1879年)の2篇の紀行文を出版。ファニーと2人の子どもを連れてスコットランドに帰り、精力的に創作に取り組んだ。1881年にはエッセイ『若い人々のために』を出版する。

1882年エッセイ『わが親しめる人と書物』(吉田松陰の小伝をふくむ)を出版した。同年、南フランスイエールに家を買ったが、後に父の病気が悪化したのでボーンマスに移り住んだ(1884年 - 1887年)。1883年には一躍彼の名を高からしめた、最初の長編小説『宝島』を出版、ウィリアム・グラッドストンローズベリー卿の家で『宝島』を見せられて欲しくなり、翌日ロンドン中の本屋を探させたというほどの人気だった[1]1885年『プリンス・オットー』を出版、1886年『誘拐されて』及び、代表作『ジキル博士とハイド氏』を出版した。

1887年、5月に父が亡くなったのを機に、8月には妻子と共にアメリカへ移住し、あらたな転地先を物色する。スティーヴンソンはサンフランシスコに滞在していた時に、チャールズ・ウォーレン・ストッダード (Charles Warren Stoddard) という出版界の人物と出会い、彼の南海の話に興味を持っており、検討の末、以前スクリブナーズ出版社の依頼で取材した南太平洋の島々の気候が自身の健康のために良いと考え、1888年にマルキーズ諸島ヌク・ヒバ島パウモトゥ諸島ギルバート諸島を訪れた。1889年にハワイ諸島を訪問した際にはカラカウア王に親しくなって、ハワイの地理や歴史に関心を持ち、古くのハレ・オ・ケアウエ王の名を「壜の小鬼」の主人公の名にしている[2]1890年10月に家族とともに南太平洋のサモア諸島中のウポル島に移住し、残りの生涯を同地ですごした。彼は島人から「ツシタラ(語り部)」として好かれ、自らも島の争いを調停するなどの仕事をした。島での暮らしは健康に恵まれ、多くの作品を発表した。ジャコバイトの反乱の際に発生したアソル公爵家の分裂騒動に関心を持ち、それをモデルにした悲劇的な歴史小説『バラントレーの若殿』を書き始め、アメリカ、タヒチ、ハワイで書き継がれて1889年に単行本化された。またファニーの連れ子のロイド・オズボーン(英語版)との共著もある。

1894年12月4日、スティーヴンソンは妻との会話中、ワインの栓を抜こうとしたときに脳溢血の発作を起こし2時間後に亡くなった。遺稿は倒れる直前まで口述していた小説『ハーミストンのウエア』で未完作となった。

スティーヴンソンの亡骸はバエア山の頂に葬られ、墓碑には彼の詩が刻まれた。RequiemUnder the wide and starry skyDig the grave and let me lieGlad did I live and gladly dieAnd I laid me down with a willThis be the verse you grave for meHere he lies where he longed to beHome is the sailor, home from seaAnd the hunter home from the hill鎮魂歌広大な星空の下墓を穿ちわたしは横たわるわたしは喜びとともに生き、喜びとともに死に従容として身を横たえる墓にはこう刻んで欲しい彼、憧れの地に眠る船乗りは海から故郷を望む狩人は丘から故郷を望む

1897年母マーガレットが、1914年妻ファニーが死去。ウポル島のスティーヴンソンの旧邸は、現在「ロバート・ルイス・スティーヴンソン博物館」として利用されている。
評価

ジョン・ゴールズワージーは「スティヴンソンは人間の型を描いたり人間の生活の種種の面を描き出すというよりは寧ろ物語作者であって、アレグザンダ・デューマーディッケンズに較べてみて遜色がないのみか、筋の運びの手際の良さと快適な速さを持つ点では却って両者を凌駕するものである。十九世紀の英国の作家の中で不朽の生命をもつであろうと想われるのは、ディッケンズを除けばひとりスティヴンソンあるのみである」と述べている[3][注釈 2]

『アシニヤム(アテナイオン)』誌 (The Athenaeum (British magazine)) では「スティヴンソンこそ現文壇に於ける物語文学再興の主導者である」と評している[4][注釈 3]

今日もなお『宝島』『ジキル博士とハイド氏』『新アラビア夜話(自殺クラブ)』などは、児童向け抄訳を含めて日本や世界各国で広く読み継がれており、全作品が19世紀に属する英国作家としては最も大衆的人気を保ち続けている一人である。

サモアを始めとする南洋を舞台にする短編小説に「びんの小鬼(The Bottle Imp)」(1891年)「声の島(The Isle of Voice)」(1893年)などがある[5]。「びんの小鬼」はドイツの古い伝説からアイデアを得たと言われており、イギリスで発表された後に宣教師によってサモア語に翻訳され、サモアでこれを掲載した新聞は発行部数が跳ね上がった[5]。サモア人たちはスティーブンソン夫妻がサモア人たちを手厚くもてなすのを見て、この小説に登場するびんのおかげで豊かな暮らしができるのだと信じていたという[6]


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