ロバート・ラウシェンバーグ
1999年のラウシェンバーグ
誕生日1925年10月22日
出生地テキサス州ポートアーサー
死没年2008年5月12日(2008-05-12)(82歳)
国籍 アメリカ合衆国
運動・動向ネオ・ダダ、ポップアート
芸術分野美術家
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ロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg, 1925年10月22日 - 2008年5月12日)は、20世紀のアメリカの美術家[1]。ジャスパー・ジョーンズとともにアメリカにおけるネオダダの代表的な作家として活躍した。のちのポップアートの隆盛にも重要な役割を果たしたことでも知られる。 1925年、テキサス州ポートアーサーに生まれた。父親はドイツ系アメリカ人とチェロキー族インディアンの混血、母親はイングランド系アメリカ人。ブルーカラーの家庭に育ち、第二次世界大戦中の1942年から1945年までは海軍に所属していた。終戦後、1947年から翌年初めにかけてカンザス・シティ美術学院
生涯
1948年秋にアメリカに帰国したのちは、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジでジョゼフ・アルバースに学んだ[3]。ブラック・マウンテン・カレッジでは、夏期の講師だったジョン・ケージやマース・カニンガムの影響も受けた。ケージもラウシェンバーグの作品に影響を受け、ラウシェンバーグの作品『ホワイト・ペインティング』は、ケージが『4分33秒』(1952年)を作曲するきっかけの一つになった[注釈 1][5][6]。
1949年からニューヨークに住み、アート・スチューデンツ・リーグでも学んでいる。1951年頃から作品を画廊で発表し、1954年頃から「コンバイン・ペインティング」と呼ばれる一連の作品を発表し始める。1958年には親交のあったジャスパー・ジョーンズと同じくニューヨークの画商レオ・キャステリ(英語版)の画廊で個展を開き、やがてヨーロッパにも出品されて人気を呼んだ[7]。
1964年、ヴェネツィア・ビエンナーレで最優秀賞を受賞した[8]。同年には、カニンガムのダンス・カンパニーの美術監督として世界ツアーに参加し、日本では草月ホールで公開制作を行なった[9]。世界ツアー終了後はパフォーマンスやエンジニアとのコラボレーションに重点を移し、芸術家とエンジニアのコラボレーション組織であるExperiments in Art and Technology(英語版)(E.A.T.)の設立や運営にも関わった[10]。そのため画廊で発表する絵画作品の発表を止めていたが、同時期に1964年から1965年にかけて巡回展をしていた『ダンテの「地獄編」のためのドローイング34篇』(『ダンテ・ドローイング』)展はヨーロッパで反響を呼び、ラウシェンバーグのアメリカでの評価も高めた。この作品はダンテの『神曲』地獄篇を題材にした内容で、ダンテ生誕地のイタリアでも好評だった[注釈 2][12]。
1964年に世界各地をまわる中で、ラウシェンバーグは各地の素材を用いて制作をするというスタイルを確立した。1984年以降には世界の芸術家と共同制作して展覧会を行う「ラウシェンバーグ海外文化交流」(ROCI=ロッキー)を設立し、アメリカと政治体制が異なるソヴィエト連邦や中国など10カ国を訪問した[13]。1992年にヒロシマ賞、1993年に国民芸術勲章、1995年にレオナルド・ダ・ヴィンチ世界芸術賞を受賞した。