オーストラリアのフィギュアスケート選手については「ロバート・マクナマラ (フィギュアスケート選手)」をご覧ください。
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アメリカ合衆国の政治家ロバート・マクナマラRobert McNamara
1961年1月12日
生年月日 (1916-06-09) 1916年6月9日
出生地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ
没年月日 (2009-07-06) 2009年7月6日(93歳没)
死没地 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
出身校カリフォルニア大学バークレー校
ハーバード大学
前職フォード・モーター社長
所属政党無所属
称号文学士(カリフォルニア大学バークレー校)
経営学修士(ハーバード大学)
配偶者マーガレット・クレイグ(1940‐1981)
ダイアナ・マシエリ・バイフィールド(2004‐)
子女3人
サイン
世界銀行
第5代総裁
在任期間1968年4月1日 - 1981年7月1日
アメリカ合衆国
第8代国防長官
在任期間1961年1月21日 - 1968年2月29日
大統領ジョン・F・ケネディ
リンドン・B・ジョンソン
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ロバート・ストレンジ・マクナマラ(英語:Robert Strange McNamara、1916年6月9日 - 2009年7月6日)は、アメリカ合衆国の政治家、実業家。第5代世界銀行グループ総裁、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン政権で第8代国防長官を務めた。 1916年6月9日にカリフォルニア州サンフランシスコに誕生する。父は靴の卸会社の販売マネージャーだった。カリフォルニア大学バークレー校で経済学を専攻し、1937年に卒業した。副専攻として数学と哲学も学ぶ。卒業後に1939年にハーバード大学のビジネススクールでMBAを取得した。 サンフランシスコのプライス・ウォーターハウス社で会計士として働いたが、1940年8月にハーバード大学へ戻り、ビジネススクールで教鞭を執る。大学では企業経営に用いるアナリティカル・アプローチを陸軍航空隊の士官に教えた。 第二次世界大戦が勃発した後、1943年にアメリカ陸軍航空軍へ入隊し、統計管理局で戦略爆撃の解析および立案の仕事に従事した。1945年にヨーロッパにおけるドイツの敗北が決定的になると、陸軍航空軍はヨーロッパ戦線で余っていた爆撃機のボーイングB-17を極東に転用し、日本への戦略爆撃に使用しようとした。 チャールズ・B・ソーントンを指揮官とするマクナマラら統計管理局の若手将校たちは、統計学を用いて徹底的に分析し、B-17を廃棄して新型の大型爆撃機のボーイングB-29を大量生産し、対日戦に投入する方がコスト面で効率的であると主張した。彼らの意見は採用され、B-29を1944年末から開始された対日戦略爆撃に大量投入することで、大きな戦果を上げる。 しかし東京大空襲をはじめとする日本の諸都市への一連の無差別爆撃に対する倫理性については、上官であるカーチス・ルメイに抗議しており、後の映画などのインタビューでも後悔の念を語っている。3年間の軍役の後に中佐として1946年に除隊した。 第二次世界大戦後、ソーントンは統計管理局で共に働いた優秀な若手将校たちをまとめてビジネス界に売り込もうと考えた。ソーントンは当時ゼネラルモーターズに対して不利な立場に立たされていたフォード・モーターへチームを売り込み、マクナマラらは最高経営幹部候補生として採用された。 後に「ウィズ・キッズ(Whiz Kids/ 神童)」として知られるようになる彼らは、当時のアメリカの大企業では普通になっていた大学卒が経営陣にわずか10パーセントしかおらず、非効率がまかり通っていたフォードを大胆なリストラと不採算工場の閉鎖でコストを大幅に削減して効率性を高め、ヘンリー・フォード時代からの伝統に縛られた経営悪化に苦しむフォードを一変させ利益を拡大させた。 フォード時代の1950年代には「エドセル」投入という歴史に残る大失敗に関与したものの、その後はフォードの小型車第1号である「ファルコン 1960年アメリカ合衆国大統領選挙に勝利したジョン・F・ケネディは、前任のアイゼンハワーより国防政策の能力に欠けているとされていた。ケネディはエスタブリッシュメントの重鎮であるロバート・ロベットに主要閣僚への就任を要請した。ロベットは健康状態を理由にこれを辞退し、マクナマラを国防長官に推薦した。ケネディは義弟のサージェント・シュライバー
経歴
生い立ち
陸軍時代
ウィズ・キッズ
国防長官時代マクナマラとケネディ
1961年3月28日に行われたケネディ大統領の議会への最初の一般教書演説において、マクナマラは国防政策の改革を盛り込むように提案した。その骨子は、十分な戦略兵器を配備することでアメリカおよび同盟国への核攻撃を思いとどまらせ、先制攻撃も辞さないとした。ケネディはそれを拒否し、アメリカ軍は文民統制下に常に置かれるべきで、国防体制は不合理な戦争や偶発的戦争の勃発の危険性を減らす方向で行かなければならないと考えていた。
1962年10月に起きたキューバ危機において、マクナマラはジョン・マコーンCIA長官、マックスウェル・テイラー統合参謀本部議長ら強硬派と共にキューバへの先制攻撃(キューバ内のミサイル基地の破壊・キューバへの空襲・それに伴うキューバへの上陸の実施)を唱えていた一方で、キューバ周辺の公海上の封鎖とキューバに向かうソビエト連邦の船舶の海上査察を提案し(後に海上査察という言葉はソ連との戦闘状態に突入していなかったので、海上臨検に置き換えられた)、これはケネディ大統領の承認を受けた。これは10月24日に実行に移され、ソビエト連邦の船舶との戦闘状態を起こす事無く海上封鎖と臨検に成功した。また彼以上に強硬論を唱えるカーチス・ルメイ空軍参謀総長、ジョージ・アンダーソン・ジュニア(英語版)海軍作戦部長らを抑える事にも尽力した。 ケネディ政権は共産陣営の「民族解放戦争」に対して正面からの戦争は避けつつも、政権転覆やゲリラ戦術に訴えて対抗していくことを前面に押し出した。1962年の年次報告でマクナマラは、「軍事面の強化では狙撃・待伏せ・強襲の戦闘力強化。政治面では恐怖感・強奪・暗殺」と述べた。 実際にアメリカ軍にこれらの訓練を積んだ特殊部隊を増強し、当時混迷を増していた南ベトナムには、「軍事顧問団」と称するアメリカ軍の部隊の増強を続けた。また、ベルリン危機 彼の核政策の要は、いかにNATOを核の脅威から守るかであった。マクナマラの目的は西側のアメリカ合衆国の同盟国への核攻撃がアメリカからソ連への報復攻撃に繋がることをモスクワに確信させることにあり、ソビエト連邦が都市への核攻撃をできないようにする施策を望んでいた。彼はアナーバーでのスピーチで、「大規模な攻撃が行われても直ぐに報復可能な核備蓄を行うべきである」と述べた。 マクナマラはこの戦略を実現するため、兵器と補給システムの革新と拡張を促進した。また、1966年までに当時旧型のタイタンIやアトラスミサイルを廃止し、後継の大陸間弾道ミサイル(ICBM)ミニットマンと潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)ポラリスの配備を加速した。マクナマラ在任中、54基のタイタンIIと1,000基のミニットマンを陸上配備し、また41隻の原子力潜水艦に656基のポラリス配備を行った。 1965年に相互確証破壊(MAD)の考えを打ち出した。 彼は、アイゼンハワー政権の核戦略を転換させた。前政権は大量核報復戦略を当然とするアーサー・ラドフォード海軍大将やカーチス・ルメイ空軍大将などが動かしていた。それに密かに反対していたマクスウェル・D・テイラー陸軍大将を統合参謀本部議長にして、より穏健な立場に立ち、軍部を掌握した聡明な文官としての地位を確立した。民主党勝利の大きな理由であった「ミサイル・ギャップ(ミサイルでアメリカはソ連に負けているという説)」は存在しないと国防長官就任直後に発言し物議を醸したように、彼は単純な核兵器拡張論者では無い。当時前線司令官に一部任されていた核使用権限を大統領に集中し、文官側によるより柔軟で広範な判断をできる仕組みを作り上げた。 国防省に国防情報局を設置して3軍の情報を集中し、国防長官に情報が集まるようにした。また、国際安全保障局で文官側の判断が独自に出来るようにし、システム分析局で情勢や装備の文官側の判断が出来るようにした。またヨーロッパ諸国の国防省に文官組織を作り、軍部が独走しないようにした。 マクナマラはシステム分析の手法を広く導入した。 システム分析導入の顕著な例は、PPBS(Planning, Programming, and Budgeting System/効用計算予算運用法)である。国防省の監査役のチャーリーズ・J・ヒッチとマクナマラは、国防に必要な要素を統計的に分析し、長期的かつ計画された国防予算の立案を行った。PPBSはマクナマラの管理手法の中心に据えられた。PPBSの基本的な考え方は以下の通りである。
対共産陣営とベトナム戦争
核戦略
国防省の改革・核戦略の転換など
PPBS「en:Output budgeting」も参照
防衛システムの課題を国家としての必要性と妥当性から解決手段を分析する。