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ロバート・ベーデン=パウエル
Robert Baden-Powell
ベーデン=パウエル
渾名ベーデン=パウエル卿
インペーサ(眠らない狼)
マフェキングの英雄
世界の総長
B-P
生誕1857年2月22日
イギリス
イングランド
ロンドン、パディントン
死没 (1941-01-08) 1941年1月8日(83歳没)
ケニア植民地 ニエリ
所属組織 イギリス陸軍
軍歴1876 - 1910
最終階級陸軍少将
指揮騎兵総監
第5竜騎兵連隊長
戦闘マタベルの反乱
ボーア戦争
除隊後英国ボーイスカウト連盟総長
署名
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初代ギルウェルのベーデン=パウエル男爵ロバート・スティーヴンソン・スミス・ベーデン=パウエル(英語: Robert Stephenson Smyth Baden-Powell, 1st Baron Baden-Powel of Gilwell, OM, GCMG, GCVO, KCB, DL、1857年2月22日 - 1941年1月8日)は、イギリスの軍人、作家で、スカウト運動(ボーイスカウト、ガールガイド)の創立者[1]。 ベーデン=パウエル卿(Lord Baden-Powell)と呼ばれることも多く、またB-Pの愛称でも知られる。ロバートの名は蒸気機関車の発明者ジョージ・スチーブンソンの一人息子の鉄道技師ロバート・スチーブンソンが名付け親(了解を得て名付けられた)である。父ベーデン・パウエル
人物
軍人として最初期から、それまでの懐中時計に代えて積極的に腕時計を利用した人物でもあり、自著『マタベレの戦い
』(1897年)にはリストウォッチに対する言及があり、これはこの言葉の用例としては最古のもの。また1895年7月に撮影されたとおぼしき彼の写真にはレザー・キャップ(革サック)型の腕時計をした姿が残っており、これは写真に残った男性用腕時計の記録としては最古のものと思われる[2]。アフガニスタンにおいて、手旗信号を初めて陸上で使用した軍人でもある(それまでは海軍で用いられていた)[3]。ボーイスカウトでは、創始者である彼への敬意を表すため、彼の誕生日である2月22日に近い活動日に、B-P祭という団集会をする慣例がある。
絵画や彫刻にも長け、自筆の水彩画やペン画のイラストは自著の挿絵として数多く用いられた。
年譜
1857年 2月22日イギリス・ロンドン市内パディントンで生まれる。
1860年 父が死亡。父を称えて家族は姓をパウエルからベーデン=パウエルに改めた。B-Pの母は35歳にして6男(ワリントン、ジョージ、アウグスタス、フランシス、彼、ベーデン)1女(アグネス)の7人の子供達を養うことになる。
1868年 ローズ・ヒルスクールへ入学。
1870年 サリー州ゴダルミングのチャーターハウス・スクールへ入学。
1876年 俳優になりたいという夢を母親に反対されて受験したオックスフォード大学ベリオール・カレッジとクライストチャーチ・カレッジへの入学に失敗(この時の数学の試験官はルイス・キャロルで、B-Pのテストの出来について酷評した記録が残っている。[4])。イギリス陸軍に入隊。第13軽騎兵連隊と共にインド・ラクナウに駐在。
1877年 中尉に昇進。
1878年 健康状態の悪化のため帰国。
1880年 第13軽騎兵連隊へ再任し、アフガニスタン・カンダハールへ移駐。
1881年 連隊がムトラへ移動。大尉に昇進。
1884年 最初の著書「偵察と斥候術」が出版される。連隊は南アフリカ・ダーバンへ。
1885年 ドラケンスバーグ山脈への独行偵察(3週間、600マイル)に成功。連隊はイギリス・ノリッジへ帰還。
1886年 ロシア陸軍・ドイツ陸軍の演習を個人的にスパイし、新型の機関銃やサーチライト、飛行船の情報を収集して持ち帰る。
1887年 1月、ドイツ陸軍・フランス陸軍の演習をスパイ。蝶の収集家に変装して偵察旅行を行い、蝶の羽根のスケッチに偽装して敵の軍事施設の見取り図を描いたエピソードは有名。12月、ヘンリー・スミス将軍の副官として再びアフリカへ。
1888年 ナタールにおけるズールー族との戦いで、ズールーの族長ディズニル(ディニズールー)が放棄した集落から戦利品として、木製(アカシア・イエロー製)のビーズ数千個に紐を通した3mを超える長さの首飾りを手に入れる(このビーズが後のウッドバッジトレーニング(ボーイスカウトのリーダー研修)の修了した証である「ウッドバッジ」となった)。