ロバート・プラント
[Wikipedia|▼Menu]

ロバート・プラント
Robert Plant
CBE
フランス・カレ=プルゲール公演 (2018年7月)

ツェッペリン時代のシンボル
基本情報
出生名Robert Anthony Plant
生誕 (1948-08-20) 1948年8月20日(75歳)
出身地 イングランド
ウェスト・ミッドランズ州ウェスト・ブロムウィッチ
ジャンルロック
ハード・ロック
ブルース・ロック
フォーク・ロック
ロカビリー
民族音楽
職業ミュージシャンボーカリストシンガーソングライター
担当楽器ボーカル
ハーモニカ
パーカッション
活動期間1965年 - 現在
共同作業者ザ・クローリング・キング・スネイクス
バンド・オブ・ジョイ
レッド・ツェッペリン
ハニードリッパーズ
ペイジ・プラント

ロバート・アンソニー・プラント(Robert Anthony Plant CBE, 1948年8月20日 - )は、イングランド出身のロックミュージシャンボーカリスト

世界的なハードロックバンドレッド・ツェッペリン」のフロントマン。ブルージーなハイトーン唱法の第一人者でもあり、音楽界に大きな影響を与えている。2009年大英帝国勲章」受勲[1]
経歴
生い立ち

ウェスト・ミッドランズウェスト・ブロムウィッチで生まれる。幼少の頃はアメリカフォーク・ミュージックに夢中だったが[2]、10代前半の頃、父親のロバート・C・プラント(1918?2004)に連れて行かれたクラブ白人ブルース・マンが歌う姿に惹かれ、自らもブルース・バンドを組み演奏するようになる[3]。プラントは「髭も伸びないうちからハーモニカを吹いては、マディ・ウォーターズの古い歌ばかり歌っていた」と当時を振り返っている[2]

16歳で家を出ると、いろんなバンドを渡り歩くミュージシャン生活に身を投じる。その中の一つであるリッスンというバンドでは、1966年に「You Better Run」というシングルを発表、また他にも数曲をレコーディングしている[2]。その後に加入したクローリング・キング・スネークスというバンドで、後にバンドメイトとなるジョン・ボーナムに出会っている。この頃、アメリカからやってくるサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIB.B.キングといった本物のブルースマンの演奏を生で聴いたプラントは、本格的にブルースに傾倒、ボーナム等と共にバンド・オブ・ジョイ(バンド名の由来は娼婦を意味する「レディ・オブ・ジョイ」から[4])を結成する[3]。バンド・オブ・ジョイではブルース以外にもバッファロー・スプリングフィールドのようなウエスト・コースト・ロックを追求しており、3枚のシングル曲をレコーディングしたものの、1968年までには解散した。解散後はボーナムと別れ、アレクシス・コーナーと共に曲作りをしながらチャンスを窺っていた[3]
レッド・ツェッペリンとしてレッド・ツェッペリン時代 (1975年)詳細は「レッド・ツェッペリン」を参照

1968年8月、ニュー・ヤードバーズ結成のためにボーカリストを探していたジミー・ペイジが、最初に加入を打診していたテリー・リードから推薦され、バーミンガム近郊の大学で歌っていたプラントを見に来る[5]。ペイジはプラントの歌唱に圧倒され、すぐさまバンド加入を持ちかけた。ペイジはその時の様子について「彼ほどのボーカリストが無名のままなんて信じられなかった。人格的に欠陥があるかとても仕事をやり辛い人間なんじゃないかと思ったよ」と振り返っている。プラントは加入すると共に、空席だったドラマーに旧知のジョン・ボーナムを推薦、メンバーが揃ったバンドは同年9月よりスカンジナビアからツアーを開始、10月15日を以ってバンド名をレッド・ツェッペリンと改める[6]

ツェッペリンはその勢いをもって米・英双方のチャートを席巻、バンドの知名度と共にプラントのボーカリストとしての地位も上昇していった。プラントはそのルックス、声、ステージパフォーマンスから70年代を代表するセックスシンボルと称された。特に、70年代前半のステージでは、女性ものの服やインド中近東風の服の前をはだけて歌う姿は、その金色の長髪とあいまって「ロック界のアイコン(象徴)」と言われていた。

ツェッペリンとして活動していた1969年から1980年の間、プラントは課外活動をほとんど行わなかった。唯一音源として残っているものに、1979年12月に行われたカンボジア救済コンサート出演時にロックパイルの伴奏をバックに歌ったものがあり、これは『コンサート・フォー・ザ・ピープル・オブ・カンボジア』(1981年発表)に収録されている。

順風満帆に見えたツェッペリンだったが、1970年代も後半にさしかかると暗雲がたちこめるようになる。1975年、家族と共にギリシャロドス島で休暇を取っていた時、運転していた車が木に激突し足首を骨折。子供達は軽傷だったが妻のモーリーンは頭蓋骨骨折という重傷を負った[7]。ツェッペリンの7枚目のアルバム『プレゼンス』は、プラントがまだ完全には回復してない中での制作となったが、本作での歌詞はプラントによれば皆事故の前後の状況を描いたものになっているという[8]。さらに1977年7月、息子のカラックを突然の病で失うという悲劇にも見舞われる。当時ツェッペリンは全米ツアー中であったが残りの予定は全てキャンセルされた。なお、これがツェッペリンにとって最後のアメリカでのツアーとなった。プラントの悲嘆は深く、当時は「全て放り投げて全く違う人間になってもいい」とさえ考えていたという[9]

その後何とか復活するも、1980年のジョン・ボーナムの急死により、ツェッペリンはその活動に幕を閉じた。
解散後とソロ・キャリア

解散からしばらくは隠遁生活に入ったプラントだったが、1981年3月には新たなバンド、ハニードリッパーズを結成。小さなクラブでギグをこなすという活動を続ける[10]1982年6月、1stアルバム『11時の肖像』をリリース。ツェッペリン時代のハードロック・スタイルに別れを告げ、新たなスタイルの音楽に着手する。その後も1983年に『ザ・プリンシプル・オブ・モーメンツ』、1984年にはハニードリッパーズ名義の『ヴォリューム・ワン』、1985年には『シェイクン・アンド・スタード』と、矢継ぎ早に新作を発表し続けた。ツェッペリン時代のビッグヒットには及ばないものの、1990年までの全アルバムは全米20位以内につけるヒット作となっている[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:96 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef