ロバート・フック
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ロバート・フック
歴史画家リタ・グリアによるフックの肖像(油絵、2004年作)
生誕1635年7月28日7月18日
イングランド王国 ワイト島 フレッシュウォーター(英語版)
死没 (1703-03-03) 1703年3月3日(67歳没)
イングランド王国 ロンドン
研究分野物理学化学
研究機関オックスフォード大学
出身校クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)
指導教員ロバート・ボイル
主な業績フックの法則
顕微鏡による観察
"cell" を細胞の意味で初めて使用
署名
プロジェクト:人物伝
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ロバート・フック(Robert Hooke、1635年7月28日7月18日〉- 1703年3月3日)は、イギリス自然哲学者、建築家博物学者、生物学者王立協会フェロー[1]。実験と理論の両面を通じて科学革命で重要な役割を演じた。
概要

成人後の人生は3つの期間に分けられる。当初は貧しいが優秀な科学研究者だった。その後経済的に成功し、1666年のロンドン大火では復興のために大いに貢献した。しかし晩年は気難しくなり、様々な論争に首をつっこんだ。歴史的にあまり名が残らなかったのは、この晩年の所業が災いしている。

弾性に関する法則(フックの法則)、『顕微鏡図譜』、生体の最小単位を "cell"(細胞)と名付けたことで知られている。その業績からすると、フックについて書かれた文献は驚くほど少ない。一時期は王立協会の実験監督を務め、同協会の協議会の一員でもあった。ロンドン大火後の焼け跡の測量を指揮し、焼け跡のほぼ半分の測量を行った。建築家としても有名だったが、現存している建築物は少なく、一部は他人の設計だと思われていた。大火後のロンドンの都市計画に関与し、今もその影響がロンドンの街並みに残っている。歴史家アラン・チャップマンは「イングランドのレオナルド」と評した[2]

プロテクトレート時代にオックスフォード大学ウォドム・カレッジで学び、ジョン・ウィルキンズを中心に結成された王党派の一団に参加した。医学者トーマス・ウィリスや化学者ロバート・ボイルの助手を務め、ボイルが気体の法則を見出した実験に使った真空ポンプの製作を手伝った。最初期のグレゴリー式望遠鏡を作って火星や木星が自転していることを観察し、化石を研究して進化論を唱えた初期の1人となった[3][4]。光の屈折現象を研究して波動説に到達。物体を熱すると膨張すること、空気が比較的疎らな微粒子でできていることなどを示唆した。測量や地図作成の分野でも先駆的業績を残しており、史上初の近代的平面図を作成した。ロンドン復興時には格子状の街区にする再建案を提案したが、既存の道路をそのまま再建する案が採用された。重力が(距離について)逆2乗の法則に従うこと、惑星がそういった法則に従って運行していることにほぼ気づいており、ニュートンがその考え方を発展させた[5]。科学的研究のほとんどは1662年に就任した王立協会の実験監督として行ったものとロバート・ボイルの助手時代に行ったものであるという。
生涯フックの顕微鏡(『顕微鏡図譜』にある版画)

フックの前半生については、1696年に書き始めた未完の自伝によるところが大きい。Richard Waller が1705年に出版した The Posthumous Works of Robert Hooke, M.D. S.R.S. でその自伝の原稿を参照している。Waller の著作と John Ward の Lives of the Gresham Professors、ジョン・オーブリーの Brief Lives がフックのほぼ同時代の伝記的記録の全てである。
生い立ち

1635年ワイト島フレッシュウォーターで生まれる。兄が2人、姉が2人おり、7年後にさらにもう1人生まれている[6]。父は英国国教会の聖職者で[7]、2人の兄も聖職者になった。当然ロバートも聖職者になることを期待されていた。

父は地元の学校の責任者でもあり、ロバートの身体が弱いこともあって自宅で勉強を教えた。父は王党派でチャールズ1世支持者であり、ワイト島に逃げてきたことがほぼ確実である。ロバートも当然ながら忠実な君主制主義者として育てられた。

幼いころから観察することが好きで、機械や製図に惹かれていた。真鍮時計を分解して木でその複製を作ると、それが十分に動作したという。製図の技法を学び、石炭、石灰石、鉄鉱石などを原料として自分の手で素材を作った。

1648年に父が亡くなり、徒弟修業が受けられるようにと父が残した40ポンドの遺産を手にした[6][8]。父はロバートが機械好きだということで、時計職人か装飾写本の絵師になるだろうと考えていた。フック自身は画家にも興味があった。徒弟修業するつもりでロンドンに出たが、Samuel Cowper やピーター・レリーの下で短期間学んで優秀さを見出され、すぐに Richard Busby のウェストミンスター・スクールに入学できた。間もなくラテン語やギリシャ語を習得し[8]、ヘブライ語も学び、ユークリッドの『原論』も習得した[8]。また、そこで生涯の研究対象となる力学に出会った。

学校の通常の教育と平行して Busby が個人教授した生徒の1人だったと見られている。当時の文献には学校に「ほとんど出てこなかった」とあり、これは Busby が個人教授した生徒に共通している。Busby は熱心な王党派で、チャールズ1世、2世時代のイングランドで開花し始めた科学の精神をあらゆる手段で保持しようとした。これはプロテクトレート(イングランド共和国)時代の聖書に忠実な教育とは相反するものだった。Busby や選ばれた生徒達にとって英国国教会は科学的探究の精神が神の御業に沿うものとして支持する枠組みだった。例えば Busby は Bishop of Bath and Wells になった George Hooper について「ウェストミンスター・スクールで教育を受けた中でも最高の学者、最良の紳士であり、完璧なビショップだ」と述べている。
オックスフォード時代ロバート・ボイル

1653年、オルガンも習っていたフックはオックスフォード大学クライスト・チャーチの聖歌隊に居場所を確保した[9]。そこで医学者トーマス・ウィリスに出会い、化学助手として雇われ、大きな賞賛を受けることになる。また自然哲学者ロバート・ボイルと出会い、1655年ごろから1662年まで助手として雇われ、ボイルの空気ポンプ machina Boyleana の製作、操作、実演を担当した[10]。学士号を取得するのは1662年か1663年ごろのことである。1659年、ウィルキンズに空気より重い乗り物で飛行するためのいくつかの要素を説明しているが、人間の筋力では不充分だと結論付けている。

フックは自身のオックスフォード時代を科学への情熱を形成した時代としており、このころ知り合った友人、とくにクリストファー・レンは生涯に渡っての親友となった。当時のウォドム・カレッジはジョン・ウィルキンズの指導下にあり、ウィルキンズはフックやその周辺に大きな影響を与えた。ウィルキンズも王党派であり、その時代の不穏さと不確かさに気づいていた。王党派の科学者にとって、プロテクトレートが科学を脅かそうとしていると思える切迫感があった。ウィルキンズが開催していた「哲学的会合」は明らかに極めて重要だが、ボイルが1658年に実施して1660年に出版した実験以外にほとんど記録が残っていない。このグループが王立協会創設の中核となった。ボイルの空気ポンプの元になったのは Valentine Greatorex の使っていたポンプで、フックは彼について「大事を成し遂げるには大雑把すぎる」と評している[11]


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