ロバート・フィッツロイ
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Englishの政治家ロバート・フィッツロイ海軍中将Vice-Admiral Robert FitzRoy RN

生年月日 (1805-07-05) 1805年7月5日
出生地イングランドサフォーク州アンプトン
没年月日 (1865-04-30) 1865年4月30日(59歳没)
死没地イングランドロンドン
第2代 ニュージーランド総督
在任期間1843年12月26日 - 1845年11月18日
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ロバート・フィッツロイ(Robert FitzRoy, 1805年7月5日 - 1865年4月30日)は、イギリスの海軍軍人チャールズ・ダーウィンが参加した2回目のビーグル号航海で艦長を務めた。また天気予報を実用化しようと試みた開拓的な気象学者、優れた測量学者水路学者であり、1843年から1845年までニュージーランド総督を務めた。
家系

ロバート・フィッツロイはイングランドサフォーク州アンプトンで生まれた。父チャールズ・フィッツロイは陸軍軍人、国会議員で、祖父は首相に就任した第3代グラフトン公オーガスタス・ヘンリー・フィッツロイ、父方の祖先はイングランドチャールズ2世である。母は初代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアートの娘で、内務大臣を務めたカスルリー子爵の妹である。

異母兄のチャールズ・フィッツロイはプリンスエドワード島アンティグア・バーブーダの総督などを歴任した。息子のロバート・オブライエン・フィッツロイはイギリス海峡艦隊の司令官、海軍少将となった。
生涯
海軍へ入隊

4歳からノーサンプトンシャーのフィッツロイ家の邸宅で育てられた。1818年2月に12歳でポーツマスの王立海軍学校に入り、翌年には英国海軍に入隊した。14歳で志願してオーウェン・グレンダウワー号に乗り込んだ。1820年に南アフリカへ向かい、1822年1月に帰国した。この航海中にミッドシップマンに昇進した。その後ハインド号に乗艦し、1824年9月に史上初めて「満点」で試験を通過し、レフテナントに昇進した。

テティス号に勤めたあと、フラッグ・レフテナントとしてロバート・オトウェイ少将指揮下のガンジス号に乗艦した。ちょうどそのとき、フィリップ・パーカー・キング艦長の総指揮の元、プリングル・ストークス艦長のビーグル号はティエラ・デル・フエゴの測量を行っていた。プリングル・ストークスはひどい鬱で、拳銃自殺した。船はスカイリングが指揮を引き継ぎリオデジャネイロに入港した。1828年12月、そこでオトウェイはフィッツロイを臨時の艦長に任命した。1830年11月に船は帰還し、フィッツロイは測量士、艦長としての名声を得た。

調査の間、部下の数人が陸上でキャンプをしているときにフエゴ島民がボートを持ち去った。フィッツロイはこれを追跡し、いさかいのあと犯人の家族が人質として船に連れてこられた。2人の男と、男子、女子を1人ずつ抱えることになった。彼らをうまく岸へ戻すことができなかったので、フィッツロイは人質を「文明化」することに決めた。宣教師として彼らを帰す前に、「英語と…キリスト教の明らかな真実と…そしてふつうの道具の使い方」を教えようと考えた。彼らは洗礼名を与えられた。女子はフエジア・バスケット、男子はジェミー・ボタン、大人の男の1人はヨーク・ミンスターと名付けられた。もう1人のボート・メモリーはイングランドに戻り、天然痘ワクチンを打たれた後で死亡した。彼らは宣教師リチャード・マシューズの関心を引き、1831年夏には国王に謁見するのに十分なほど「文明化」された。
ビーグル号の第2回航海

1831年5月にフィッツロイはイプスウィッチ選挙区からトーリー党の候補として総選挙に出馬したが敗れた。彼は新しい地位を得て、失敗しつつあるようだった宣教活動を組織化することを望んだ。個人的な出費の元で船を借り上げ、マシューズを連れてフエゴ人を故郷に帰そうと考えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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