この項目では、イギリス・アイルランドのジャーナリストについて説明しています。その他の用法については「ロバート・フィスク (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ロバート・フィスク
ロバート・フィスク(アルジャジーラ・フォーラム2010において)
原語名Robert Fisk
生誕 (1946-07-12) 1946年7月12日
イギリス イングランド・ケント州メードストン
死没2020年10月30日(2020-10-30)(74歳)
アイルランド ダブリン
市民権
アイルランド
イギリス
教育
ランカスター大学 (BA, 1968)
ダブリン大学トリニティ・カレッジ (PhD, 1985)
職業『インデペンデント』中東特派員
代表経歴
ジェイコブ賞
ロバート・フィスク(Robert Fisk、1946年7月12日 - 2020年10月30日)は、イギリスとアイルランドの市民権を持つ作家・ジャーナリストである[1][2]。そのキャリアを通じて、アメリカ合衆国の中東政策(英語版)やイスラエル政府のパレスチナ人への対応(英語版)に批判的だった[3]。その姿勢は、多くのコメンテーターから称賛される一方で、非難されることもあった[4][5]。
国際特派員として、レバノン内戦、アルジェリア内戦、シリア内戦、イラン・イラク戦争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争、ソ連のアフガニスタン侵攻、イラン革命、イラクのクウェート侵攻、アメリカのイラク侵攻・占領などを取材した。アラビア語を話すことができるフィスクは[6][7]、ウサーマ・ビン・ラーディンにインタビューした数少ない欧米のジャーナリストの一人であり、1993年から1997年の間に3回にわたりインタビューした[8][9]。
『ニューカッスル・クロニクル(英語版)』紙でジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせ、『サンデー・エクスプレス』紙に移った。その後、『タイムズ』紙で北アイルランド、ポルトガル、中東の特派員として活動した。1976年からは断続的にベイルートに駐在していた。1989年以降は『インデペンデント』紙に勤務した[10]。フィスクはイギリス国内および国際的なジャーナリズムの賞を多数受賞しており、特に、プレス賞(英語版)のForeign Reporter of the Yearを7回受賞している[1]。
フィスクの著書には、"The Point of No Return"(1975年)、"In Time of War"(1985年)、"Pity the Nation: Lebanon at War"(1990年)、"The Great War for Civilisation: The Conquest of the Middle East(2005年)[1]、"Syria: Descent Into the Abyss(2015年)がある[11]。 フィスクは、イングランドのケント州メードストンで1946年7月12日に生まれた[12]。父親のウィリアム(ビル)・フィスク(1899-1992)は、メイドストーン・コーポレーションの財務担当者で、第一次世界大戦に従軍していた[13]。母のペギー(ローズ)・フィスクはアマチュアの画家で、後にメイドストーンの判事になった。フィスクは2人の間の唯一の子供だった[6]。第一次大戦末期、父のビルは他の兵士の処刑命令に従わなかったために処罰された。このことに関してフィスクは後に、「父が他の人を殺すことを拒否したことは、父が人生で行った唯一のことであり、私もそうしただろう」と語っている。父は自分が従軍したときのことをほとんど語らなかったが、息子は戦争に魅了されていた。父の死後、フィスクは父が1918年8月から大隊の日誌を書いていたことを知った[14]。 フィスクは、プレップスクールのヤードリー・コート フィスクは『サンデー・エクスプレス』のコラムを担当していたが、編集長のジョン・ジュナー
若年期と教育
キャリア
新聞特派員