初代レスター伯
ロバート・ダドリー
Robert Dudley
1st Earl of Leicester
レスター伯ダドリー家
レスター伯ロバート・ダドリーの肖像画
称号初代レスター伯、初代デンビー男爵、ガーター勲章勲爵士 (KG)
出生1532年6月24日
死去 (1588-09-04) 1588年9月4日(56歳没)
イングランド王国、オックスフォード、コンベリー・ハウス
配偶者エイミー(旧姓ロブサート)
初代レスター伯ロバート・ダドリー(英: Robert Dudley, 1st Earl of Leicester, KG、1532年6月24日 - 1588年9月4日)は、イングランドの廷臣、貴族。
初代ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの五男。テューダー朝最後の女王エリザベス1世の寵臣であり、一時は女王の愛人となり結婚も取り沙汰されていた。1564年にレスター伯に叙された。エリザベスの宮廷で初代バーリー男爵ウィリアム・セシルと勢力を二分した。対スペイン主戦派であり、1585年から1586年にかけてはネーデルラント反乱軍の援軍の指揮をとったが、戦果は上げられなかった。 1533年に後にノーサンバランド公に叙される廷臣ジョン・ダドリーの五男として生まれた。1550年にノーフォーク大地主の女子相続人エイミー
概要
1558年にプロテスタントのエリザベス1世が即位するとただちに主馬頭(英語版)に取り立てられ、翌1559年には枢密顧問官に列した。女王の寵愛を受け、やがて女王と愛人関係となり、結婚の噂も立ったが、1560年の妻エイミーの事故死をめぐる疑惑で女王との結婚は困難になった。1564年にはレスター伯に叙されるとともにケニルワース城(英語版)を与えられた(→エリザベス女王の寵愛)。
宮廷内では初代バーリー男爵ウィリアム・セシルと対立する派閥の領袖だった。1569年には反セシルの立場とスペインに自分と女王の結婚を認めてもらおうという意図から、第4代ノーフォーク公トマス・ハワードとメアリー・ステュアートの結婚計画に協力したが、計画が女王の不興をこおむると手を引いた。外交面では対スペイン主戦派であり、平和派のセシルと対立した。1577年のフランシス・ドレークの世界一周航海も、セシルが消極的だったのに対して彼は積極的に支援した(→反セシル派として)。
しばしば女性問題で女王の逆鱗に触れた。特に1578年にレティス・ノウルズ(英語版)と再婚した時の女王の怒りは激しかった(→女性問題)。1585年にはスペインに対抗するネーデルラント反乱軍の援軍の指揮官として派遣されたが、女王に無断でネーデルラント総督職を引き受けたことにより女王の不興を買い、さらに指揮官としても無能だったため、1586年には召喚された(→ネーデルラント出兵)。
1588年夏にはテムズ川河口でスペイン無敵艦隊来襲に備えたが、海戦直後に体調を悪化させ、同年9月に死去した。