ロバート・セシル_(初代ソールズベリー伯)
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イングランド王国政治家初代ソールズベリー伯爵
ロバート・セシルRobert Cecil
1st Earl of Salisbury

生年月日1563年6月1日
出生地 イングランド王国ロンドン
没年月日 (1612-05-24) 1612年5月24日(48歳没)
死没地 イングランド王国ウィルトシャー
出身校ケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジ(英語版)、リンカーン法曹院
称号初代ソールズベリー伯爵ガーター勲爵士(KG)、バス勲章勲爵士(KB)、枢密顧問官(PC)
親族初代バーリー男爵(父)
初代エクセター伯(兄)
フランシス・ベーコン(従兄弟)
第2代ソールズベリー伯(長男)
第3代ソールズベリー侯(雲孫の子)
国王秘書長官
在任期間1596年7月5日 - 1612年5月24日
女王
国王エリザベス1世
ジェームズ1世
ランカスター公領大臣
在任期間1597年10月8日 - 1599年
女王エリザベス1世
大蔵卿(英語版)
在任期間1608年5月4日 - 1612年5月24日
国王ジェームズ1世
庶民院議員
選挙区ウェストミンスター選挙区(英語版)
ハートフォードシャー選挙区(英語版)
在任期間1584年 - 1587年
1588年 - 1601年
貴族院議員
在任期間1603年5月13日 - 1612年5月24日
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初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシル(: Robert Cecil, 1st Earl of Salisbury, KG, PC1563年6月1日 - 1612年5月24日[1])は、イングランド政治家貴族

テューダー朝最後の女王エリザベス1世ステュアート朝最初の国王ジェームズ1世に重臣として仕え、エリザベス朝後期からステュアート朝初期のイングランドの国政を主導した。国王秘書長官(在職:1596年 - 1612年)や大蔵卿(英語版)(在職:1608年 - 1612年)などを歴任した。

エリザベス1世の即位から晩年までの重臣の初代バーリー男爵ウィリアム・セシルは父である。また19世紀後半に3度にわたってイギリス首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは9代後の子孫である。
概要

1563年、女王エリザベス1世国王秘書長官初代バーリー男爵ウィリアム・セシルの次男として生まれる。ケンブリッジ大学リンカーン法曹院等で学び、フランスソルボンヌ大学にも留学した(→生い立ち)。

父の後援を受けて1584年庶民院議員に当選して政界入りした。国務を差配する父を補佐し、議会活動を通じてエリザベス女王の目にもとまり、1591年には枢密顧問官に任じられた(→政界入り)。

しかしその後、女王の寵臣第2代エセックス伯爵ロバート・デヴァルーとの権力闘争が始まり、両者は様々な問題で対立を深めるようになった。エセックス伯派とのポスト争いの中で1596年には国王秘書長官1599年には後見裁判所(英語版)長官に就任した。1598年から1599年にかけて女王とエセックス伯の関係が悪化したため、セシルが優位に立つようになる。さらに1601年にエセックス伯がクーデターを起こして失敗して処刑されたことで彼の権勢を脅かす者は消え去った(→エセックス伯爵との対立)。

エリザベス女王の晩年にはスコットランドジェームズ6世と連絡を緊密にしてステュアート家への王位継承準備を整えた。彼の手まわしのおかげで1603年3月のジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)への王位継承は大きな混乱なく達成された。新王ジェームズ1世にも重用され続け、1605年にはソールズベリー伯爵位を与えられた(→ステュアート朝への王朝交代)。

1608年に大蔵卿(英語版)に就任。財政破綻状態の王庫を立て直すべく、既存の財政基盤の増収を徹底させた。さらに議会に対して「大契約」を提案することで国王大権を基礎とした封建的税制から国民への恒常的課税制度を基礎とした近代的財政へ転換させようとしたが、同法案は議会で否決され、挫折した(→財政再建と「大契約」の挫折)。その後、体調を悪くし、1612年5月24日に死去した(→晩年)。

エリザベス女王からもジェームズ1世からも厚く信頼された政治家だった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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