ロバート・スペンサー_(第2代サンダーランド伯)
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第2代サンダーランド伯ロバート・スペンサー

第2代サンダーランド伯ロバート・スペンサー(Robert Spencer, 2nd Earl of Sunderland, KG, PC, 1641年9月5日 - 1702年9月28日)は、イングランドの貴族・政治家。初代サンダーランド伯ヘンリー・スペンサーレスター伯ロバート・シドニーの娘ドロシー・シドニーの息子。名誉革命の招聘者の1人であるロムニー伯ヘンリー・シドニーは母方の叔父で、マールバラ公にもなったチャールズ・スペンサーは孫に当たる。
生涯

1643年清教徒革命イングランド内戦)で父が戦死し僅か2歳で爵位を継承、カンバーランド公ルパートの騎兵隊に入り王党派として戦った。オックスフォード大学で学ぶ一方でグランドツアーにも出かけ、母方の叔父の1人アルジャーノン・シドニーと共に旅行で知り合ったウィリアム・ペンと親交を結んだ[1][2]

王政復古後の1671年から1672年スペイン大使を務め、同年から1673年フランス大使に転任、1673年に王室執事となり1679年に枢密院に入り北部担当国務大臣も担当した(1680年南部担当国務大臣に替わる)[1]

しかし、ホイッグ党に属してイングランド王チャールズ2世の弟のヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)を排除する王位排除法案に賛成したことと、王位継承者にチャールズ2世の庶子のモンマス公爵ジェイムズ・スコットを推すシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーと対立、義兄のハリファックス伯(後に侯爵)ジョージ・サヴィルと共にチャールズ2世兄弟の甥に当たるオランダ総督ウィレム3世と接触して排除法案賛成を促したことがチャールズ2世の怒りを買い1681年に枢密院を除名、南部担当国務大臣の職も追われた。その後チャールズ2世の愛人ルイーズ・ケルアイユに取り成して1683年に北部担当国務大臣に復帰、1685年にチャールズ2世が亡くなりヨーク公がジェームズ2世として即位した時はトーリー党に転換、ハリファックス侯に代わり枢密院議長も兼任した。一方、友人ペンが借金の代わりにペンシルベニア植民地提供をチャールズ2世に申し出た時はヨーク公と共に賛成している[1][3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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