ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニー
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ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニー(英語: Robert Stephenson and Company)は、1823年にイギリスに設立された機関車の製造会社である。鉄道の機関車を専門に製造する会社として設立された最初の会社であった。 加悦鉄道2に貼付されている銘板
目次

1 設立と初期の成功

2 レインヒル・トライアル

3 ロングボイラー設計

4 クランプトン型

5 19世紀における重要な輸出品

6 20世紀にかけて

7 合併と廃業

8 日本との関わり

9 脚注

10 参考文献

設立と初期の成功

会社は1823年にジョージ・スチーブンソン、その息子のロバート・スチーブンソン、エドワード・ピース(英語版)、マイケル・ロングリッジ(Michael Longridge、ベドリントン(英語版)にある鉄工場の所有者であった)らによってイングランドニューカッスル・アポン・タインのフォース・ストリートに設立された。彼らによるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の建設の一環として設立されたものであった。工場の管理者はしばらく、後にジョージ・スチーブンソンと同じくイギリス機械学会(英語版)の会長を務めることになるジェームズ・ケネディ(英語版)が担当していた。

最初の機関車は「ロコモーション・ナンバーワン(英語版)」で、これによって製造ラインが開かれ、続いて「ホープ」(Hope)、「ブラック・ダイヤモンド」(Black Diamond)、「ディリジェンス」(Diligence) という3両が製作された。垂直に取り付けられたシリンダーのため、これらの機関車は動揺が激しく、ヘットン炭鉱鉄道(英語版)ではスチーブンソンは蒸気圧によるスプリングを導入してみたが、失敗に終わった。1828年には「エクスペリメント」(Experiment) において斜めにシリンダーを取り付けて、安定性を改善しまたスプリングの上に取り付けられるようになった。当初は4輪であった「ビクトリー」(Victory) も造られ、後に6輪に改造された。この頃、アメリカ合衆国向けに2両の機関車が製造されている。最初の1両、4輪の「アメリカ」(America) はデラウェア・アンド・ハドソン鉄道による発注であった。2両目は6輪の「ウィスラー」(Whistler)で、1833年にボストン・アンド・プロビデンス鉄道(英語版)向けに製造されたが、後に「マサチューセッツ」(Massachusetts) と改称され、マサチューセッツ州マンスフィールド(英語版)において沼に沈んで失われた。
レインヒル・トライアル

1829年にスチーブンソンのロケット号レインヒル・トライアルに勝利を収めた。この機関車には多煙管式のボイラーと独立した火室という2つの大きな改良があった。当初は斜めに取り付けられていたシリンダーは後に水平に改造された。インヴィクタ(英語版)は12両目の機関車で、カンタベリー・アンド・ホイットスタブル鉄道(英語版)向けに製造された。シリンダーは斜めに取り付けられていたが、前端に移されていた。1830年にはシリンダーを台枠の内側に入れたプラネット型機関車が登場し、さらに大型化したボイラーにおいて安定性を増すために従輪を追加したパテンティー型機関車(英語版)が続いた。この車軸配置2-2-2の設計は多くのメーカーで長年にわたり多くの機関車に使われることになった。

ジョン・ブルは当初プラネット型機関車であったが後に改造され、現在はスミソニアン博物館に収容されている。これは今も自走可能な最古の車両だとされている。
ロングボイラー設計

多くの列車が長距離を走るようになってきたことから、火室と煙突の問題が浮かび上がってきた。ノース・ミッドランド鉄道(英語版)のダービー工場との協力により、彼は排気ガスの温度を測定し、将来の機関車においてはボイラーを延長することを決めた。当初はこれらのロングボイラー機関車(英語版)は車軸配置2-2-2であったが、1844年にスチーブンソンは、車輪の間にシリンダーを持ってくるために従輪を前に移して車軸配置4-2-0とした。1846年の軌間比較において、イザムバード・キングダム・ブルネルの製作した「イクシオン」と比較されたのは、このタイプの機関車の1両「グレートA」とノース・ミッドランド鉄道からのもう1両であった。1846年には従輪を追加し、初めて8輪の機関車となった。1842年にはさらなる重要な発明としてスチーブンソン式弁装置が開発された。
クランプトン型

ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーはサウス・イースタン鉄道(英語版)やロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道(英語版)向けに多くのクランプトン型機関車(英語版)を製作した。これらはすべて車軸配置4-2-0の内側シリンダー非直接駆動方式であった。内側シリンダーは火室の前に位置するクランクシャフトを駆動し、このクランクシャフトが外側の連結棒で動輪に連結されていた。この方式はロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道では不成功に終わり、5両のエコー型機関車はわずか4年の使用で通常の車軸配置4-4-0の機関車に改造された[1]
19世紀における重要な輸出品

ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーにとっての初期の輸出車両としてはエジプト向けのものがあり、これはエジプトの総督にスエズ-アレクサンドリア鉄道の建設を依頼されたことによるものであった。これはスエズ運河の構想を受けたもので、総督はスチーブンソンの鉄道がスエズ運河よりも優れたものであるかもしれないと考えたものであった。会社は実際に着手し一部の区間は完成させた。しかしフランスによる政治的な反対を受けたため、工事を中止せざるを得なくなった。1849年にムハンマド・アリーが亡くなり、1851年に後継者のアッバース・パシャはロバート・スチーブンソンと契約してエジプト初の標準軌の鉄道を建設することになった。最初の区間、地中海岸のアレクサンドリアとロゼッタ支線上のナイル川に面したカフル・エル=ザイアットの間は1854年に開通した。これはオスマン帝国内における最初の鉄道で、またアフリカ・中東における最初のものでもあった。同年アッバース・パシャは亡くなりサイード・パシャが後を継ぎ、その治世下にカフル・エル=ザイアットとカイロの間が1856年に、そしてカイロからスエズの間が1858年に開通した。フェルディナン・ド・レセップスがスエズ運河を完成させたのは1869年であったので、これは地中海とインド洋を結ぶ最初の近代的な交通機関であった。当初はカイロ-アレクサンドリア間の路線はカフル・エル=ザイアットにおいてナイル川を80フィート(約24 m)の車両艀で横断していた。しかし1858年5月15日にサイードの推定後継者であるアフマド・リファート・パシャを乗せた特別列車が艀から川に転落し、彼は溺死してしまった。このためスチーブンソンは、この車両艀に代えてほぼ500 mの長さのある旋回橋を建設することになった。
20世紀にかけて

19世紀の残りの期間、次第に競争が激しくなっていったが、国内および国外に対して鉄道関連機材を供給して会社は繁栄した。1899年までに約3,000両の機関車が製造され、新しい有限責任会社のロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニー・リミテッド(Robert Stephenson and Company Limited)が設立され、そしてダーリントンへ工場が移転した。この工場からの最初の機関車は1902年に出荷された。

イギリスの多くの鉄道会社は自前で鉄道車両を製造していたので、多くの製品は輸出用であった。たとえば車軸配置4-4-0のウード・アンド・ロヒルカンド鉄道 (Oudh and Rohilkund Railway) 向けの機関車や、車軸配置4-6-0あるいは2-8-0のベンガル・ナーグプル鉄道(英語版)向けの機関車などである。これらの機関車はインドの鉄道向けのBESA規格の設計にいくらか先行したものであった[2]


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