ロバート・スコット
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この項目では、イギリスの探検家について説明しています。アメリカ出身の俳優・タレントについては「ロバート・スコット (俳優)」をご覧ください。
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ロバート・ファルコン・スコット
Robert Falcon Scott
1912年
生誕1868年6月6日
イングランドプリマス
死没 (1912-03-29) 1912年3月29日(43歳没)
南極大陸
所属組織イギリス海軍
軍歴1883年 - 1912年
最終階級大佐
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ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott, 1868年6月6日 - 1912年3月29日)は、イギリス海軍軍人探検家南極探検家として知られ、1912年に南極点到達を果たすが、帰途遭難し、死亡した。
生涯

1868年醸造業を営むジョン・エドワード・スコットの長男として、誕生。武人の家系であり、13歳で海軍兵学校に入学する。15歳で士官候補生となる。1888年、海軍大学を卒業。

1899年、少佐だったスコットは、王立地理学協会による南極探検計画を知り、隊長として参加する事を熱望する。翌年中佐に昇進し、その任にあたった。

1901年から1904年にかけて、第1回南極探検(ディスカバリー号の探検)が行われた。この際、アーネスト・シャクルトンらと共に南極点到達を目指し、残り733kmの地点まで迫っている。また、ペンギン生態観察等を行い、南極に関する多くの科学的知見を得て、高い評価を得、帰国と同時に大佐に昇進する。

1904年には、南極探検の功績に対して、王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた[1]

1908年に、彫刻家のキャサリン・ブルースと結婚。1909年9月、彼の南極探検計画が発表され、同年12月には自ら予備役に転じ資金調達に奔走する。前回の南極探検は国家的プロジェクトだったが、この時の探検はその立案からスコット個人によるところが大きい。

1910年から1912年にかけて、南極探検(テラ・ノヴァ号の探検)が行われた。学術調査だけでなく、ノルウェーと人類史上初の南極点到達を競うことになる(後述)が、2着に終わり、さらに帰路1912年3月29日、死去した。43歳没。同年10月に救援隊により遺体が確認され、遺品の一部が回収された。

ロンドンのウォータールー・プレイスには、フランクリン遠征を率いての北極探検の半ばに死亡したジョン・フランクリンの銅像と並び立つように、スコットの像が建てられている。この銅像は、キャサリン夫人が製作したものである。
テラ・ノヴァ号の探検詳細は「テラノバ遠征」を参照
探検隊

隊長:ロバート・スコット海軍大佐

副隊長:
エドワード・エヴァンズ海軍少佐

ヴィクター・キャンベル海軍少佐

ヘンリー・バウアーズ海軍少佐

ローレンス・オーツ陸軍大尉

エドワード・ウィルソン医師

他海軍士官7名

科学者8名

技術者4名

エドガー・エヴァンズ(海軍)

トマス・クリーン(海軍)

他普通隊員12名


ウーズレー社製 モーター雪上車 3台

矮馬(ポニー) 19頭

犬 33頭

南極点到達競争の勃発氷に閉ざされたテラ・ノヴァ号 (1910年12月) ハーバート・ポンティング撮影[2]

1910年6月1日、スコットはテラ・ノヴァ号にて第2回南極探検に出発する。この探検には8,000名の希望者から選抜された33名の上陸隊員が参加し、南極の科学的探査を行うと共に、世界初の南極点到達を目標としていた。

同年ロアール・アムンセン率いるノルウェー隊は、北極点到達がロバート・ピアリーの米国隊により達成されたことを知り、目標を南極に変更。

10月12日、オーストラリアメルボルンに、10月27日にはニュージーランドウェリントンに到着。ここで、ノルウェーのアムンセン隊も南極点到達を目指すことを知る。なお、スコット本人は資金調達のため別行動を取った。両隊とも、1911年1月には南極大陸に上陸し、翌夏の南極点到達を目指し、デポ(前進基地)の建設等準備を進めた。この冬の段階で、すでに馬は10頭まで減っている。

また、ウィルソンやキャンベルを中心に学術調査も行われた。
南極大陸上陸1911年

1911年10月、マクマード湾での越冬を終えたスコット隊は、エヴァンス岬(ロス棚氷)から南極点に向け出発する。雪上車2台による先発隊が10月24日、そしてロバート・スコットが率いる馬ぞりの本隊が11月1日に出発した。

しかし、これに先立つ10月19日には、より南極点に近いクジラ湾からアムンセンの犬ぞり隊も南極点を目指し出発していた。出発前にアムンセンはスコット隊の隊員と会見した時、そり犬を譲ろうと申し出ているが、イギリス側はその申し出を断っている。

スコット隊は2台の雪上車を投入したが、これはエンジン付きのそりといった代物だった。スコットの期待に反して1週間足らずで両方ともエンジンが故障し、修復不可能になってしまったため、南下は困難を極める。また、羽織っていた毛織物の防寒具が水を吸って凍り付いてしまい、体温の管理にも支障をきたす。主力の馬も寒さと疲労、餌の欠乏で次々と失い、南下のペースが徐々に鈍ってゆく。12月2日、ついに食料節約のため最後の1頭も射殺せざるを得ない状況に追い込まれ、終いには人力でそりを曳かざるを得なくなった。この時点で、4人1組で曳引するそりが3台、犬ぞりが2台となる。

12月11日、まず犬ぞり隊が帰還。同月22日に、4名が帰還した。
南極点到達南極点到達メンバー
(後列左から)ウィルソン、スコット、エヴァンズ
(前列左から)バウアーズ、オーツ

1912年1月4日に南緯87度32分の地点でグループは分かれ、エヴァンス少佐ら3名が帰還した。最終的に南極点を目指すのはスコット、エドワード・ウィルソン、ヘンリー・バウアーズ、ローレンス・オーツ大尉、エドガー・エヴァンスの5人に絞られた。スコットが直前になってバウアーズを加え、当初の予定より1名多い。

1月9日、かつてシャクルトンが到達した南緯88度23分を越える。翌10日、最後のデポを建設。

1月17日18時30分頃、スコット達は遂に南極点に到達した[3]


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