イギリスの政治家第2代リヴァプール伯爵
ロバート・ジェンキンソンRobert Jenkinson, 2nd Earl of Liverpool
生年月日1770年6月7日
出生地 グレートブリテン王国、ロンドン
没年月日 (1828-12-04) 1828年12月4日(58歳没)
死没地 イギリス、ロンドン・ホワイトホール・ファイフハウス
第2代リヴァプール伯爵ロバート・バンクス・ジェンキンソン(英: Robert Banks Jenkinson, 2nd Earl of Liverpool, KG PC、1770年6月7日 - 1828年12月4日)は、イギリスの政治家、貴族。
トーリー党政権で閣僚職を歴任した後、1812年から1827年にかけて首相を務めた。政権初期にナポレオン戦争が終結し、ウィーン体制が構築された。イギリスを四国同盟に参加させつつ神聖同盟には参加しなかった。政権前半期には穀物法を制定したり、黎明期の労働運動に対して「ピータールーの虐殺」や治安六法制定などで弾圧するといった保守的政治が多かったが、ジョージ・カニングらトーリー党内自由主義派が閣僚に登用されたことで1822年頃から自由主義の傾向を示すようになり、自由貿易の推進や弾圧法規・厳罰主義法規の緩和などの改革が行われた。保守派閣僚と自由主義派閣僚の融和に努めていたが、1827年に病のために退任した。
1796年から1803年まで父の爵位ホークスベリー男爵を儀礼称号として使用、1803年にホークスベリー男爵位、1808年にリヴァプール伯爵位を継承した。
経歴
首相就任まで1790年代のロバートを描いたトーマス・ローレンスの絵。
1770年6月7日、のちに初代リヴァプール伯爵に叙されるチャールズ・ジェンキンソン(英語版)とその最初の妻アメリアの間の長男として生まれる[2]。父チャールズは当時小ピットの秘書をしており、後に小ピット内閣で商務庁長官を務める[3]。
サリー州のパブリックスクール、チャーターハウス・スクールで学び、オックスフォード大学クライスト・チャーチを卒業した[2]。
ロバートは父から政治家になるよう道を決められていたといい[3]、1790年にウェストモーランド州アップルビー選挙区(英語版)から出馬してトーリー党所属の庶民院議員に当選した。同年、サセックス州ライ選挙区(英語版)に転じる[2]。
1796年に父がリヴァプール伯爵に叙されたことで父の従属爵位ホークスベリー男爵を儀礼称号として使用するようになった。1803年11月には繰上勅書により、いまだ父が存命ながらホークスベリー男爵を継承し[2]、貴族院議員に列する[1]。
1799年から1801年まで第一次小ピット内閣下で造幣局局長(英語版)を務めた[2]。
1801年から1804年にかけてヘンリー・アディントン内閣に外務大臣として入閣し[4][2]、フランス側とアミアンの和約の交渉にあたった[5]。