ロバート・ケネディ暗殺事件
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ロバート・ケネディ暗殺事件
 暗殺直前のケネディ(中央)
場所 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスアンバサダーホテル
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度03分35秒 西経118度17分50秒 / 北緯34.0597度 西経118.2971度 / 34.0597; -118.2971座標: 北緯34度03分35秒 西経118度17分50秒 / 北緯34.0597度 西経118.2971度 / 34.0597; -118.2971
日付1968年6月5日
午前0時15分 (太平洋標準時)
標的ロバート・ケネディ
攻撃手段拳銃による銃撃
武器アイバージョンソン22口径
死亡者1
負傷者5
犯人サーハン・ベシャラ・サーハン
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ロバート・ケネディ暗殺事件(ロバート・ケネディあんさつじけん)とは、アメリカ合衆国1968年に発生した暗殺事件。

1963年暗殺されたアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの弟で、アメリカ合衆国上院議員であるロバート・ケネディが、出馬していた大統領選挙キャンペーン期間中の1968年6月5日夜、カリフォルニア州ロサンゼルスで銃撃され、死亡した事件である。
概要

1968年のアメリカ大統領選挙の民主党予備選挙を戦っていたケネディは、カリフォルニア州およびサウスダコタ州アメリカ合衆国大統領予備選挙を勝ち抜き、ロサンゼルス市内のアンバサダーホテルで支持者に向かって演説を行った後、厨房を通過中に銃撃を受け、26時間後に病院で死亡した。

犯行を行った当時24歳のパレスチナ移民サーハン・ベシャラ・サーハン終身刑を言い渡され、2020年時点でも刑務所に服役中である。勝利演説の直後に起きた事件であったため、その場にいた記者によって銃撃直後の様子が録音されており、映像もテレビカメラに収められている。また、銃声がフリーランスの新聞記者によって録音されていたことが2004年に明らかになった[1]

ケネディの遺体は、告別式が行われた6月8日まで2日間、ニューヨークセント・パトリック大聖堂に安置され、延べ10万人以上から弔問を受けた。ケネディの遺体はアーリントン国立墓地の兄ジョンが眠るそばに埋葬された。ケネディが暗殺されたことを契機に、シークレットサービスは大統領候補も警護するよう変更された。

なお、ケネディが争った大統領選挙の民主党候補はヒューバート・H・ハンフリーが選ばれたが、本選挙ではリンドン・ジョンソンが始めたベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤退を公約していた共和党リチャード・ニクソンに敗れた。

兄ジョンの死同様、ロバートの死についても陰謀論を含む様々な議論が巻き起こった。アメリカ合衆国上院議員として暗殺された人物は、2014年の時点でケネディの他にはヒューイ・ロングだけである。
事件の背景

ケネディは1948年、22歳の時に『ボストン・ポスト』の特派員としてイギリス委任統治領パレスチナを訪れており、地域に住むユダヤ人に共感を抱くようになった[2]。上院議員になると彼はイスラエルの強力な支持者となっていった[3]

ケネディは1961年1月からアメリカ合衆国司法長官を務めていたが、上院議員選挙に出馬するため1964年9月3日に辞任し、11月の選挙を勝ち抜き、1965年1月3日ニューヨーク州選出議員としてオフィスを構えた[4]

現職大統領のリンドン・ジョンソンは、1968年の大統領選挙で民主党からの候補者指名をもくろんでいた。当時の社会情勢は、政府が貧困対策や差別撤廃の法整備を進めていたが、大都市で暴動が発生し、ベトナム戦争の反戦運動も盛んで、不安定であった[5][6]。1968年3月12日、対立候補であるユージーン・マッカーシーニューハンプシャー州の予備選で、ジョンソンの49%に対し大きく迫る42%を得票した[7]。ニューハンプシャー州はジョンソンが圧倒的に有利と見られており、この結果は「マッカーシーの大勝利」とも報じられた[8]。その4日後、ジョンソンでは選挙に勝てないと踏んだケネディは同じ民主党員でありながらも大統領選出馬を表明する[9]。3月31日、これを受けてジョンソンは再指名を諦め、選挙からの離脱を表明した[10]

副大統領ヒューバート・H・ハンフリー(民主党)は立候補の表明を遅らせ、予備選挙に出ないまま民主党代議員の支持を獲得していった[11]。最終的にハンフリーは4月27日に出馬を表明した。事件直前のカリフォルニア州予備選が終わった段階では、ハンフリーが561票、ケネディが393票を獲得し、ケネディは後塵を拝していた[12]
暗殺ロサンゼルスにおけるロバート・ケネディ

1968年のカリフォルニア州予備選挙は6月4日火曜日に実施された。党大会においてカリフォルニア州は各州の中で最大の代議員数を擁する州であり、その後の予備選の趨勢にも関わってくる重要な予備選挙であった[13]。先に同日実施されたサウスダコタ州予備選でのケネディ勝利が伝えられた。カリフォルニアでのケネディの勝利は午後11時過ぎになってから明らかとなった[14]

投票終了から4時間後、6月5日の深夜0時10分ごろ(太平洋標準時)、ロサンゼルスのミッドウィルシャーにあるアンバサダーホテルのエンバシー・ルームで、ケネディは支持者に向けて勝利演説を行った[15]。当時、政府のシークレットサービスは現職大統領は警護していたが、大統領選挙候補者は対象外だった。ケネディの周りを守っていたのはFBIの元エージェント、ウィリアム・バリーと2人のボディーガードだけであった[16]。キャンペーン期間中、ケネディは大衆との交流を歓迎し、興奮した民衆が彼に触ろうとすることも、ままあった[17]


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