ロバート・クレイギー
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ロバート・レスリー・クレイギー
駐日大使時代
生誕1883年12月6日
死没1959年5月16日(満75歳没)
職業外交官
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サー・ロバート・レスリー・クレイギー(英語: Robert Leslie Craigie, GCMG, CB, PC, 1883年12月6日 - 1959年5月16日)は、イギリス外交官駐日英国大使である。

支那事変(日中戦争、1937.7/7)勃発後、日本の大陸政策と英国の華北権益が衝突し、日英関係が急速に険悪化する1937年9月3日(-1941年)駐日大使として着任。
1941年12月8日(日本時間)にマレー侵攻および真珠湾攻撃により日本と英米両国が開戦したため、日本政府に短期間抑留され、翌年に交換船で帰国。

クレイギーについて論議を呼ぶのは、クレイギーが駐日大使の任務を総括した「最終報告書」の中で、「対日戦争(太平洋戦争大東亜戦争)は必ずしも不可避では無かった事」を示唆し、英国政府を批判した点である。
経歴

ロバート・クレイギーは1883年12月6日香港を基地とするイギリス軍艦の艦長の子として生まれ、幼時には毎年日本の箱根で夏を過ごした。ハイデルベルクで個人教授を受け、後にイギリス外交官試験合格、1907年英外務省に入省した。以後、各種国際会議において事務を経験、1917年一等書記官としてスイス公使館に勤務し、1920年にはアメリカ大使館に異動。次に、1923年外務省勤務を命じられ、海外貿易局に勤務、そして再び英外務省の本省にて勤務となり、1928年外務省参事官に任命され1930年ロンドン海軍軍縮会議に参加し、また1935年には外務次官補に昇任し第二次ロンドン海軍軍縮会議に参加した。(1)

1930年と1935年の二つの海軍軍縮会議に参加し、日本人と交渉をした経験があり、1937年9月3日に54歳で駐日大使として着任。以後、1938年の夏の終わりに宇垣・クレイギー会談を行い、1939年7月から8月にかけて天津事件を俎上に有田・クレイギー会談があり、1940年1月から2月にかけて浅間丸事件を巡り再度の有田八郎外相との会談を経て、1941年12月太平洋戦争の勃発により日本政府に拘留され、翌年本国送還。(2)

戦後、戦前最後の駐日大使としてロンドン日本協会の理事長に就任し、日本協会の中心人物であったハンキー卿、エドワード・クロウ、フランシス・ピゴット英陸軍少将と共に1955年1月24日に勲章を授与され、クレイギーは旭日章を授与されている。1959年5月16日、75歳で死去。(3)
クレイギー大使着任と日英対立の背景海軍次官主催の送別会におけるクレイギーと山本五十六海軍次官

 1917年ロシア革命以降、日本の・・・就中陸軍・・・は支那における、また東アジア全般における赤露共産主義浸透戦略に対して懸念を抱いていた。そして、1930年代に入り、満州事変以後、孤立に傾いた日本がコミンテルンの全世界的膨張とみなしたものに対抗するためドイツに接近し、また日本外交の政治的側面はそれまで以上に国防意識を堅信化させ、徐々に戦時体制化を進行させていった。(4)

 日英の対立の背景は以上のような文脈の中で、支那事変日中戦争)勃発後、日本の対共産主義戦略を主眼とした大陸政策と英国の華北権益の衝突により引き起こされたと概観できる。

【日英対立までの概要】

 1935年夏以降、彼らの国防意識は満州国建国時からの方針に従って、内蒙工作、華北分離工作によって外蒙・ソ連方面からの赤化勢力の浸透防止をはかり、華北からの国民党勢力の影響力排除を目指させた。(5)(6)
軍は、支那の現状は遺憾ながら日蘇開戦に際しては、支那をしてソ連の友邦たらしむべき公算極めて大なるものありと判断しあり・・・<そのような現状下で>西部内蒙古即ちチャハル、綏遠及以西の地帯は帝国の大陸政策上重要なる価値を有す。即ち若し該地域を我日満側の勢力下に包容せんか、積極的には進んで同一民族たる外蒙古懐柔の根拠地たらしむべく、更に西すれば新疆方面よりするソ連勢力の魔手を封ずると共に、支那本部をして陸上よりするソ連との連絡を遮断して、支那大陸に対する第三「インター」の企図を根底より挫折せしめ得べし。


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