ロバート・カミング・シェンク
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ロバート・カミング・シェンク

ロバート・カミング・シェンク(Robert Cumming Schenck, 1809年10月4日 - 1890年3月23日)は、アメリカ合衆国軍人南北戦争では北軍の将軍を務め、第一次ブルランの戦いクロスキーズの戦い第二次ブルランの戦いに参加した。海軍軍人のジェイムズ・フィンドレー・シェンクは兄。
生い立ちと初期の経歴

1809年10月4日オハイオ州ウォーレン郡フランクリンにて生まれる。1821年に父親と死別。ジェイムズ・フィンドレーの後見を受けて成長する。

1824年マイアミ大学に2年生として入学。1827年に文学士号を取得し大学を卒業するが、その後もオハイオ州オックスフォードに残りフランス語ラテン語の個人教師に従事した。1830年、文学修士号を取得。

トマス・コーウィンの下で法律を学び1831年に弁護士認可を受ける。その後オハイオ州デイトンに移り、開業弁護士として頭角を現しジョセフ・ハルゼー・クレインと共同で弁護士事務所「クライン・アンド・シェンク」を経営した。

1838年には政界への進出を目指し州下院議員に立候補するが敗北。1841年、再び州下院議員に立候補し当選する。1840年の大統領選挙ではホイッグ党を支持し、有能な演説者の1人として高い評価を獲得した。1843年に連邦下院議員に選出され、1849年まで4期連続で当選、1847年には道路運河委員会の委員長も務めた。当時、奴隷制廃止の申し立てを抑制するため長期にわたり言論統制法が施行されており、シェンクはこれを撤廃するよう訴え、また米墨戦争を奴隷制度を促す侵略戦争だと批判した。

1851年、連邦下院への再選を辞退すると、同年3月ミラード・フィルモア大統領から駐ブラジル公使に指名され、また駐ウルグアイ公使、駐アルゼンチン公使、駐パラグアイ公使の信任状も与えられた。彼はブエノスアイレスモンテビデオアスンシオンを歴訪してラプラタ川およびその支流流域諸国と条約の締結に成功、そのうちの一部はアメリカに最恵国待遇を与えるものであった。しかしウルグアイとの通商条約はアメリカ上院が批准を棄却、これは1852年の大統領選挙におけるホイッグ党の敗因の1つとなった。

1854年オハイオ州へ帰郷。一般的な共和党員の立場からすればシェンクに対する印象は悪いものではなかったが、ジョン・C・フレモントが彼に対して非常に強い反感を抱いており、シェンクは一時的に政治から離れる。彼はオハイオ州において弁護士として名声を確立し、またフォートウェイン西武鉄道の社長となった。シェンクはその後も共和党内でより多くの支持を獲得し、1859年9月にはデイトンで演説を行い国内で高まりつつある敵意に言及、この演説において共和党はエイブラハム・リンカーンを大統領に指名すべきであると主張した。

これは、公の場においてリンカーンを大統領候補として支持した、最初の出来事と考えられている。1860年シカゴで開催された政治集会とその後の選挙運動においても、強い熱意でリンカーンを支援した。
南北戦争

サムター要塞が砲撃を受け、南北戦争が開戦すると、シェンクは大統領と面会し軍務への参加を申し出た。シェンクは後に、当時のことを次のように述べている。リンカーン大統領は私を呼び、こう尋ねました。「シェンク、貴殿は私をどのように手助けしてくれるのかね。」私は答えました。「閣下が望むことならば、何でもいたします。私は、閣下の力添えになりたいと切望しています。」大統領は続けて尋ねました。「貴殿は戦えるのかね。」私は答えました。「やらせていただきましょう。」大統領は言いました。「よろしい。私は貴殿を将軍にしてみたい。」私は返答しました。「大統領閣下、それはいかがなものでしょうか。閣下は私を将軍に任命することができますが、私は自分が将軍であることを証明できないかもしれません。」すると大統領は私を将軍に任命し、私は戦いへ赴くことになりました。

シェンクは1861年5月17日に北軍に参加し、志願兵准将として任命を受けた。陸軍士官学校出身者からは政治的将軍と蔑視された。シェンクは軍人ではなかったが、軍事科学について熱心に研究していた。シェンクは最初の戦闘において貨車による偵察を試みたが、シェンクの中隊は銃撃を受け、若干名が負傷した。シェンク将軍は兵士に対し、貨車から降りて突撃するよう下命した。だがその後、工兵が貨車とともに逃走し、少数の兵士を置き去りにした。しかしながら敵兵は、取り残された兵士を大軍隊の先兵隊と勘違いし、捕縛することなく立ち去った。この出来事は後にウィンフィールド・スコット将軍の調査で「ヴィエナ事件」として知られるようになったが、鉄道での一件は陸軍士官学校出身のダニエル・タイラー将軍の手引きであったとされ、シェンク将軍の名誉は守られることとなった。しかしながらこの出来事はその後も、シェンクの信用を傷つけるためにしばしば言及された。

続いて1861年7月21日、シェンク将軍は第一次ブルランの戦いに参加し、ダニエル・タイラー将軍の師団で旅団を指揮した。戦況は劣勢で、各部隊には間もなく撤退の命令が下った。シェンク将軍は自身の旅団を、大軍から分散させることなく引き揚げさせることに成功した。その後シェンクは、バージニア州西部でウィリアム・ローズクランズの指揮下に入り、続いてジョン・C・フレモントの下で作戦に当たった。


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