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J・ロバート・オッペンハイマー
J. Robert Oppenheimer
オッペンハイマー(1944年頃)
生誕 (1904-04-22) 1904年4月22日
アメリカ合衆国、ニューヨーク州ニューヨーク
死没1967年2月18日(1967-02-18)(62歳)
アメリカ合衆国、ニュージャージー州プリンストン
居住 アメリカ合衆国
市民権 アメリカ合衆国
研究分野理論物理学
研究機関カリフォルニア大学バークレー校
カリフォルニア工科大学
ロスアラモス国立研究所
プリンストン高等研究所
出身校ハーバード大学
ケンブリッジ大学
ゲッティンゲン大学
論文Zur Quantentheorie kontinuierlicher Spektren[1] (1927)
博士課程
指導教員マックス・ボルン
博士課程
指導学生サミュエル・W・アルダーソン
J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer、1904年4月22日 - 1967年2月18日)は、アメリカ合衆国の理論物理学者[2]。
理論物理学の広範な領域にわたって大きな業績を上げた。特に第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られる。戦後はアメリカの水爆開発に反対したことなどから公職追放された。
1960年9月に初来日して東京都・大阪府・京都府を訪れている[3]。 ドイツからのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス、母はアシュケナジムの画家エラ・フリードマンである。弟のフランク・オッペンハイマー
人生
生い立ち
非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語を学んでいた。最終的には6カ国語を話した。一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどなかった。ただし、セーリングと乗馬は得意であった。 ハーバード大学に入学し、化学を専攻した。飛び級もあり、1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年でかつ首席で卒業。 イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていくことになる。彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得した。ここでの業績には、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」がある。 1929年には若くして カリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執った。1936年には両大学の教授となる[2]。生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」。 1930年代末には宇宙物理学の領域で、中性子星や今日でいうブラックホールを巡る極めて先駆的な研究を行っていた。 第二次世界大戦が勃発すると、1942年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始される。1943年、オッペンハイマーはロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている)の後、大日本帝国の広島市・長崎市に投下されることになった(→広島市への原子爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下)。
大学以降
ブラックホール研究から原爆開発へアインシュタイン(左)とオッペンハイマー(右)