ロバート・オウエン
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この項目では、イギリスの社会改革家について説明しています。その他の用法については「ロバート・オーウェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ロバート・オウエン
Robert Owen50歳ごろのロバート・オウエン
生誕

(1771-05-14) 1771年5月14日
グレートブリテン王国ウェールズ、モントゴメリーシャー(英語版)のニュータウン(ポーイス)(英語版)
死没

(1858-11-17) 1858年11月17日(87歳没)
イギリスウェールズ、モントゴメリーシャー(英語版)のニュータウン(ポーイス)(英語版)
時代19世紀初頭産業革命
地域イギリスアメリカ合衆国
学派空想的社会主義、イギリス社会主義、人道主義博愛主義世俗主義
研究分野紡績工場経営、協同組合労働組合運動、社会改良主義、性格形成論、幼児教育運動、宗教批判、共産村建設運動
主な概念環境決定論、直観教育、協同組合、生協、労働交換所、生産と生活の共同体
影響を受けた人物

トマス・モアジョン・ロックジャン・ジャック・ルソー、トーマス・パーシヴァル(英語版)、ロバート・フルトン、デイヴィッド・デイル(英語版)、ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチジェレミー・ベンサムフランシス・プレイスウィリアム・ゴドウィンジェームズ・ミルデヴィッド・リカードトマス・ロバート・マルサス、トマス・アトウッド(英語版)

影響を与えた人物

デイヴィッド・デイル(英語版)、ロバート・デイル(英語版)、リチャード・オウエン(英語版)、ジョージ・ムーディー(英語版)、アブラム・クーム(英語版)、ジョン・グレイ(社会主義者)(英語版)、ウィリアム・トンプソン(英語版)、ジョン・フランシス・ブレイ(英語版)、ウィリアム・キング(英語版)、ジョン・ドハティー(労働運動家)(英語版)、ウィリアム・ラヴェット(英語版)らチャーティズム指導者たち、ジョージ・ヤコブ・ホリョークカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスフランク・ポドモア

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ロバート・オウエン(Robert Owen、1771年5月14日 - 1858年11月17日)は、イギリス実業家、社会改革家、社会主義者。人間の活動は環境によって決定される、とする環境決定論を主張し、環境改善によって優良な性格形成を促せるとして先進的な教育運動を展開した。協同組合の基礎を作り、労働組合運動の先駆けとなった空想社会主義者。「イギリス社会主義(英語版)の父」とされ、初めて本格的な労働者保護を唱えたとされる[1]。ロバート・オーウェンあるいはロバート・オーエンの表記ゆれがみられる。
概要ロバート・オウエン

1771年、ロバート・オウエンは、北ウェールズ地方モントゴメリーシャー(英語版)のニュータウン(ポーイス)(英語版)で、小手工業者の子として生まれ、10代で商店に奉公して各地を転々とした。この間に産業革命にともなう労働者の困窮を目撃する。

1790年、マンチェスター紡績工場の支配人となって、数々の技術改良を進め、工場経営に成功、資本家となっていく。ついで、1800年以降、スコットランドニュー・ラナーク紡績工場の共同経営者となって最新技術の導入を図り、優れた経営手腕で2000人の労働者を雇用する「綿業王」へと立身出世を果たしていく。同時に、労働者の生活改善やその子弟の教育に尽力して、工場に幼稚園共済店舗を設けた。著述を通じて労働立法の必要を説き、1819年の紡績工場法(英語版)の制定に貢献した。

1817年には、貧民階級救済のために協同主義社会の創設を提案した。1825?1827年には、私財を投じてアメリカインディアナ州に協同村ニューハーモニー(英語版)を建設したが失敗に終わった。帰国後、1839-42年にクイーンウッドでも同様の試みをしたがやはり失敗する。財産を失って庶民へと身を落とした後は、社会運動や言論活動を通じて私有財産制度・宗教・財産結婚、金属貨幣制度を厳しく糾弾した。

1833-1834年には全国労働組合大連合(英語版)を創設したが、政府の弾圧と内部分裂で初の全国的統一組合は瓦解した。その後、1837-1858年にかけて成人男子選挙権と議席再配分を要求する急進的な民主化運動チャーティスト運動が発展を見せたが、オウエンは労働者解放を実現する方法を経済的な抑圧の打破に求めたため、こうした政治運動には距離を置いた。晩年は、精神更生運動に没頭して1858年に87歳で貧困のうちに没した。

マルクスエンゲルスなど「科学的社会主義者」によってアンリ・ド・サン=シモンシャルル・フーリエと並んで「空想的社会主義者」と位置づけられた[2]
経歴
幼少期(1771-1780)

1771年、北ウェールズ地方モントゴメリーシャー(英語版)のニュータウン(ポーイス)(英語版)で誕生した[3][4]。父ロバート・オウエンは馬具や金物を扱っていた小手工業者であった。父は駅逓長も務めたほか教区の会計役も果たし、地域で信頼された人物であった。そして、母アンは地元富農の娘で評判の美人で品行方正な女性だったと伝わっている。ロバートはこの両親の7人兄弟の6番目の子供として生まれた。内2人は夭折したが、上からウィリアム、アン、ジョン、リチャードが残った[5]

幼児期に注目すべき逸話としてこんなエピソードが残っている。ロバートは、5歳の時、ある日登校時刻に間に合わなくなりそうになり、朝食の熱いオートミールをあわてて飲み込んで、お腹の中に火傷をしてしまった。そのことがもとで、細かく観察したり、深く考える習慣がついたと、後年『自叙伝』の中で回想している。本書によると、この事件は自身の性格を形成するものに大きな影響を与えたと言及されている[6]

また、ロバート・オウエンは幼少期から読書を好み、『ロビンソン・クルーソー』などの小説類、ジェームズ・クックの航海記などの冒険譚、偉人たちの伝記を読み漁った[7]。8歳ごろ、メソジストの姉妹と交流を持ったのをきっかけに宗教書を読んだ。彼は宗教に関心を抱いて、宗教間・宗派間の対立の存在を知って、いつしか宗教に疑問を募らせていき、宗教に対する否定的な立場を生涯持ち続けた。その結果、地元では「小牧師」の異名を持ったという[8]。学業については、音楽、ダンス、体育が得意だった。負けず嫌いで1番になりたがり、競争心が強かった[9]。地元のジェームズ・ダン青年と交友して各所を散策、自然観察の楽しみを享受することを覚えた[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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