ロバート・アンダーソン_(軍人)
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ロバート・アンダーソン
Robert Anderson
ロバート・アンダーソン将軍
生誕1805年6月14日
ケンタッキー州ルイビル
死没1871年10月26日(満66歳没)
フランスニース
所属組織アメリカ合衆国陸軍
軍歴1825年 - 1863年
最終階級名誉少将
戦闘

ブラック・ホーク戦争
セミノール戦争
米墨戦争
南北戦争

サムター要塞の戦い

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ロバート・アンダーソン(英:Robert Anderson、1805年6月14日 - 1871年10月26日)は、アメリカ陸軍の職業軍人である。南北戦争では北軍の士官となり、開戦時にサムター要塞の指揮官だったことで知られている。ロバート・アンダーソン「少佐」と呼ばれることが多いが、サムター要塞の時の階級であり、最終的に名誉少将まで昇進した。
初期の経歴

アンダーソンはケンタッキー州ルイビル近くの「軍人静養所」で生まれた。1825年ウェストポイント陸軍士官学校を卒業し、第2アメリカ砲兵連隊の名誉少尉に任官された。1832年ブラック・ホーク戦争ではイリノイ州志願兵隊の大佐として従軍し、その間にエイブラハム・リンカーン大尉を2度軍役に徴収しまた退役させたということで知られている。1833年に中尉としてアメリカ陸軍に復帰し、セミノール戦争ではウィンフィールド・スコット将軍の参謀で総務局長補を務め、米墨戦争ではモリノ・デル・レイの戦いで重傷を負い、このことで少佐への名誉昇進を果たした。1857年10月5日に、正規軍における第1アメリカ砲兵連隊の恒久的少佐に昇進した。1839年には『野戦砲兵隊、騎馬および徒歩のための教習書』を著した[1]
南北戦争詳細は「サムター要塞の戦い」を参照サムター要塞の降伏を伝えるロバート・アンダーソンの電報

アメリカ合衆国南部州がアメリカ合衆国からの脱退を始めた時、アンダーソン少佐はケンタッキー州で以前は奴隷を所有しており、奴隷制擁護派だったが、合衆国への忠誠を貫いた。アメリカ連合国サウスカロライナ州チャールストン港のサムター要塞の砲撃を始めた時に、要塞の指揮官を務めていた。南軍の砲撃を指揮していたのはP・G・T・ボーリガード准将であり、ウェストポイントではアンダーソンの教え子だった。砲撃は1861年4月12日に始まり、兵力も大砲の数でも劣勢だったアンダーソンが4月14日に砦の降伏を受け入れるまで続いた。この戦いで南北戦争が始まった。サムター要塞の砲撃戦では、両軍共に死者は出なかったが、北軍兵のダニエル・ヒューが100門祝砲を放っている時に死んだ。

アンダーソンはサムター要塞での行動によって直ぐに国民的英雄になった。5月15日付けで准将に昇進した。アンダーソンはサムター要塞に掲げられていた33星の星条旗をニューヨーク市に持ち帰り、ユニオン広場であった愛国者の集会に参加したが、この集会は当時として北アメリカで最も多くの民衆を集めたと考えられている。アンダーソンはその後、北部州で徴兵活動を行って回り、大きな成功を収めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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