ロニー・エチソン
プロフィール
リングネームロニー・エチソン[1]
ロン・エチソン[1]
キング・オブ・マスク[1]
ロナルド・エチソン[1]
本名Ronnie L. Etchison Sr.[1]
ニックネームミズーリの竜巻
身長185cm[1]
体重110kg[1]
誕生日1920年5月6日[1]
死亡日 (1994-03-14) 1994年3月14日(73歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ミズーリ州
ブキャナン郡セントジョセフ[1]
スポーツ歴レスリング[2]
トレーナーGust Karras[1]
デビュー1939年
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ロニー・エチソン(Ronnie Etchison、1920年5月6日 - 1994年3月14日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミズーリ州セントジョセフ出身。
生年月日は1917年[3]、1920年、1924年[2]説などがある。 アマレスで活動後、20歳でプロレス入り[2]。地元の中西部地区(後のセントラル・ステーツ・レスリング)や南部のジョージア地区(後のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)などを主戦場にし、また1948年にはモンタナ州のヘビー級王座になっている[4]。 1950年代は西海岸のカリフォルニア地区を主戦場とし、1950年にはサンフランシスコ版のNWA太平洋岸ヘビー級王座を奪取した[5]。 中西部地区では1951年1月にNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取[6]、同月20日と3月23日にはルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している[7]。 タッグでもカリフォルニア地区にて、サンダー・ザボーとのコンビでNWA太平洋岸タッグ王座[8]やNWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版)などを獲得した[9]。 1960年代にはカルガリーのスタンピード・レスリングにも進出、インターナショナル・タッグ王座[10]やNWAカナディアン・タッグ王座(カルガリー版)[11]を奪取。 日本には1961年5月、日本プロレスの第3回ワールドリーグ戦に参戦[12]。同年11月には「キング・オブ・マスク」なる白を基調とした覆面レスラーとして再来日、開幕戦ではミスター・フーこと同郷のラリー・ハミルトンとの覆面コンビで吉村道明&遠藤幸吉とのタッグマッチが組まれたが、ゼブラ・キッドの干渉もあって、試合前にハミルトン共々自らマスクを脱いで正体を現している[13][14]。翌1962年1月19日の大阪大会では力道山の持つアジアヘビー級王座に挑戦した[15]。 1973年8月には全日本プロレスの『ワールド・チャンピオン・シリーズ』に、ボボ・ブラジル、パット・オコーナー、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアらと共に来日した[16]。 引退後は地元でレフェリー[3]やプロモーターを務め、プロレス業界を離れてからはバーテンダーをしていた[3]。 また、トレーナーとしてマイク・ジョージやブッチ・リードなどを指導した。 1994年3月14日、自宅にて老衰により死去[2]。73歳没。
来歴
得意技
ジャイアントスイング
獲得タイトル
モンタナ・ヘビー級王座:1回[4]
NWA太平洋岸ヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回[5]
NWA太平洋岸タッグ王座(サンフランシスコ版):3回(w / サンダー・ザボー、エンリケ・トーレス×2)[8]
NWA世界タッグ王座(サンフランシスコ版):6回(w / サンダー・ザボー、レイ・スターン、エンリケ・トーレス、バディ・ロジャース、ジョニー・バレンド、アルベルト・トーレス)[9]
NWAミズーリ・ヘビー級王座[6]