ロナルド・ドウォーキン
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ロナルド・ドウォーキン (2008)

ロナルド・ドウォーキン(英語: Ronald Myles Dworkin、1931年12月11日 - 2013年2月14日)は、アメリカ合衆国法哲学者である。晩年はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン法学部および、ニューヨーク大学法科大学院の教授であった。

法哲学と政治哲学の分野に対する貢献によって知られている。「純一性としての法'law as integrity'」理論は、の本性についての現代の主導的な理解の一つである。
来歴

ウースター (マサチューセッツ州)に生まれ、ハーバード大学で学び、ローズ奨学生としてオックスフォード大学モードリン・カレッジ(Magdalen College)に学ぶ。オックスフォード大学の指導教授はルパート・クロス(Rupert Cross)。ハーバード大学法科大学院へと進み、合衆国控訴裁判所において名高いラーニド・ハンド判事(Learned Hand)の法律書記を務めた。ハンド判事は後にドウォーキンを、自身の元でかつて働いた法律書記の中で最も聡明な者と評し、ドウォーキンはハンド判事について、深く影響を与えてくれた師であると回想する。ニューヨークの有名な法律事務所、サリバン・アンド・クロムウェル(Sullivan & Cromwell)で働いた後、イェール大学教授に就任し、ウェスリー・ニューコーム・ホーフェルド(Wesley Newcomb Hohfeld)講座教授の職位を得た。

1969年、ドウォーキンはハーバート・ハートの後任として、オックスフォード大学法学部教授として指名され、またオックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジ(University College)の特別研究員として選出された。オックスフォード大学を退職した後、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン法学部のクアイン講座教授となり、続いてベンサム講座教授に就任した。1970年代後半からはニューヨーク大学法科大学院のフランク・ヘンリー・ゾンマー講座教授、同学哲学部教授でもあった。2007年ホルベア賞受賞。

2013年2月14日、白血病のためロンドンで死去した[1]。81歳没。
原理としての法とルールとしての法

ドゥウォーキンは法実証主義の最も重要な批判者であり、考えうるありとあらゆるレベルの法実証主義者の理論を拒絶する。ドウォーキンは法の実在や内容に関するいかなる一般理論をも受け入れない。ある法について、その効果に言及することなしにでも、特定の法体系に依拠するならばそれを同定できるということを否定する。また彼は、法実証主義の全体的、慣習的な見方をも否定する。ドウォーキンにとって法理論とは、事案がいかに決定されるかという方法についての理論であり、それは政体による説明によって成立するのではなく、政府による政府の懸案に対する強制力の行使を抽象的、理想的に制御することによって成立するのである。 ⇒[1]

ドウォーキンは、ハーバート・ハートの実証主義に対する批判によってよく知られており、著書『法の帝国』の中でその批判を全面的に繰り広げている。ドウォーキンの理論は「解釈主義」と呼ばれ、法とはなんであれ、法体系の慣習的な歴史を構成的に解釈した後に得られるもの、とする。

ドウォーキンは、人々が大事に抱いている倫理的原則はしばしば誤っており、時には、歪められることによって「ある種の犯罪には受け入れられるものがある」とまで解釈されうる、と論じる。法廷はこれらの原則を見出し、適用するために、過去の法の実用を最もよく説明し正当化するような解釈を生み出そうとする視点から、法的な与件(立法過程や判例など)を解釈する。この場合、解釈が有意味なものとなるように、「純一性としての法'law as integrity'」という考え方に従わなければならない、とドウォーキンは論じる。

法がこのような意味で「解釈による」ものであると考えるドウォーキンは、人々の法的権利が云々される状況においては、解釈は「正しい答え理論(the right answer thesis)」にかかわらざるを得ない、と考える。また彼は、そのような難しい判断においては、裁判官に自由裁量権はないとする。

ドウォーキンの法原則は、ハートの「承認のルール'Rule of Recognition'」とも関係している。ドウォーキンは、ハートが言うような、法体系において他の法を有効と認定するような上位規則、という考えに反対する。その根拠は、有効と認定する過程は皆が納得するようなものでなければならないのに、人々には、正しく法的な結果が正当な異議に対して開かれているような場合でさえ法的権利があるからである。

ドウォーキンは、実証主義による法と倫理の区分に与せず、伝統的な自然法が仮定するように、法と倫理は存在論的な意味でなく認識論的な意味において関係し合っている、と考える。
正解テーゼ

「神に対して冒涜的な契約については、今後無効とする」という法案が立法過程を通過したとしてみよう。社会は、日曜日(安息日)に取り結ばれた契約は、それだけで神に対して冒涜的なのかどうか、ということに関して分裂するであろう。立法者のうちでこの問題を考えて投票した者はほとんど無く、果たしてその法をそのように解釈すべきなのかどうかについて同様に分裂している。トムとティムは日曜日にある契約を結んでしまったため、トムは法の条文を行使してその契約を無効にしようとティムを訴えたが、ティムはその法の実効性に異議をとなえる。正しい答えはどれかということについて社会が深刻なまでに分裂している状況においてでも、裁判官はトムの契約が有効かどうかについて正しい答えを求めるべきだろうか。あるいは、正しい答えなんてない、と言うほうがより現実的なのだろうか(Dworkin, 1978)。

興味深く、そして議論を呼ぶことに、ドウォーキンは大抵の法的事案に関して唯一の正しい答えがある、と主張する。彼はハーキュリーズという、極めて賢明であらゆる法源を知り、また十分に考える時間をもった理想的な判事のメタファーを用いる。法は縫い目の無い網であるとの前提に立つならば、ハーキュリーズはどんな事案を決定するに際しても、全体としての法(純一性としての法)を最も網羅し正当化するような理論を構築しなければならない。ドウォーキンによれば、ハーキュリーズは常に唯一の正しい答えにたどり着くだろうと言われる。

ドウォーキンは、ある事案に対してなにが解決と呼ばれるかということについて、有能な法律家達の間でさえしばしば意見が一致しないということは否定しない。むしろ、法律家達はハーキュリーズが出したその答えに同意しないだけなのである。

ドウォーキンの指摘によれば、実定法(すなわち、法実証主義にいう法源)が欠缺や矛盾にあふれているだけでなく、他の(原則を含む)法的基準もまた、ハードケースを解決するのに不十分であるとされる。それらのうちのいくつかは通約不可能であって、そのような状況においてはハーキュリーズでさえもジレンマに陥り、どのような答えも正しいものではないだろう、という。

ドウォーキンは、次のように言うことによって自身の立場を擁護している。すなわち、判事達であれ、一般の人間と大差ないのであって、通約不可能な選択肢や価値の間で自分達の進む道を見つけるのである、と。また、我々がすでに手にしている規則や原則が互いに衝突した場合、常に他の規則や原則を見出すことが可能なのである、と。しかしながら、互いに通約不可能な倫理基準や原則に関する同様の反論が、その過程で見出されるさらなる原則や規則に対してもあてはまるだろう。つまり、常にさらなる原則や規則を考慮に入れることができるという主張は、そのようなさらなる原則がどのようなものかということを一切説明しないのであり、全能の判事であるハーキュリーズの手になる法解釈もいつかは(正しい答えに至った時点で)終わる、ということである。


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