ロッテ・ライニガー
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ロッテ・ライニガー
Lotte Reiniger
ロッテ・ライニガー(1939年)
本名Charlotte Reiniger
生年月日 (1899-06-02) 1899年6月2日
没年月日 (1981-06-19) 1981年6月19日(82歳没)
出生地ベルリン
死没地・デッテンハウゼン(英語版)
国籍 ドイツ
イギリス
職業アニメーター監督
活動期間1918 - 1979
配偶者カール・コッホ
主な作品
『アクメッド王子の冒険(英語版)』
『ジャックと豆の木』
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ロッテ・ライニガー(Lotte Reiniger、1899年6月2日 - 1981年6月19日)は、ドイツ映画監督で、影絵アニメーションの先駆者である。マルチプレーン・カメラを最初に使用したことでも知られている[1]。40本を越える映画を彼女自身の発明品を使って製作した[2]。代表作は、現存する世界最古の長編アニメーション映画『アクメッド王子の冒険(英語版)』(1926年)、『パパゲーノ』(1935年)、など。
経歴

1899年6月2日にベルリンのベルリン=シャルロッテンブルク(ドイツ語版)地区で生まれる。父親はカール・ライニガー、母親はエレオノーレ・リーナ・ヴィルヘルミーネ・ラケーテ[3]。子供の頃、中国剪紙に魅了され、自分で人形劇を作り家族や友人に披露した[1]

十代になると映画に関心が向いた。最初はジョルジュ・メリエストリック撮影、それからパウル・ヴェゲナー(英語版)監督・主演の『巨人ゴーレム』が好きだった。1915年、そのヴェゲナーのアニメーションの未来についての講義を受講[1]。両親を説得して、ヴェゲナーの所属するマックス・ラインハルトの劇団員になると、裏方として衣装や小道具を製作した[4]。さらに、俳優たちのシルエットの肖像画を描き、ヴェゲナーの映画のための字幕も作った[5]

1918年、ヴェゲナーの映画『Der Rattenfanger von Hameln 』のために作った木のネズミのアニメと字幕が認められ[5]、実験アニメと短編映画のスタジオ「Institut fur Kulturforschung」に入る。そこで、後にライニガーの共作者・夫となるカール・コッホ(1892年 -1963年)やハンス・キュリス(1889年 - 1982年、プロデューサー)、ベルトルト・ブレヒト、ベルトルト・バルトーシュ(英語版)といったアバンギャルド芸術家たちと出会う[6]

ライニガーの最初の監督作品は『Das Ornament des verliebten Herzens』(1919年)。愛する恋人たちを描いた5分ほどの短編が好評で[1]、アニメ産業への道が拓けた[4]

それから数年のうちに『シンデレラ』(1922年)など6本の短編を製作。プロデュースと撮影はすべて夫のカール・コッホだった[7]。さらに広告映画も監督[5]。バルトーシュ、ハンス・リヒターヴァルター・ルットマンオスカー・フィッシンガーとともにドイツのアニメ界の中心的人物となった[6]

1923年、銀行家のルイス・ハーゲンの資金提供により[5]、『千夜一夜物語』を基にした『アクメッド王子の冒険(英語版)』の製作を開始する。しかし、簡単な仕事ではなかった。「私達は考え直す必要がありました。聞いたことがない話だったからです。アニメ映画は観客を笑わせることはできますが、10分以上楽しませた人は誰もいませんでしたから」[4]。映画は1926年に完成した。配給会社を見つけるまでほぼ1年かかったが、ジャン・ルノワールの支援で実現したパリでのプレミアは興行的にも批評的にも大成功だった[8]マルチプレーン・カメラのセッティングをしているライニガー(下)、コッホ、助手のWalter TurckとAlexander Kardan

ライニガーはウォルト・ディズニーアブ・アイワークスより十年前にマルチプレーン・カメラを考案した。撮影台の上に手動のシャッターのついたカメラを固定、レイヤーの効果を出すよう複数のガラス板を置き、背後から光を当てた。この方法は後のセルアニメで盛んに使われた[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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