ロッジP2
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この項目では、かつてフリーメイソンのロッジであった組織について説明しています。P2のその他の用法については「P2 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ロッジP2(Loggia P2、正式名称:Propaganda Due)は、イタリアに拠点を置くフリーメイソンのグランド・ロッジ「イタリア大東社 (Grande Oriente d'Italia)(イタリア語版)」傘下で活動していたロッジである。

メンバーの違法行為を問われ1976年にフリーメイソンのロッジとしての承認を取り消された後も、1981年10月に解散されるまで元メンバーにより秘密結社的な存在として運営されていた。その後フリーメイソンより正式に除名された。イタリア政府から正式に「犯罪組織」と指名されている。
概要
活動開始ベニート・ムッソリーニ(1925年)

イタリア統一(リソルジメント)後の1877年に、「Propaganda Massonica」の名でトリノを拠点にフリーメイソンのロッジとしての活動を始めた。しかしその後、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党政権下の1925年に「秘密結社禁止法」が施行され、イタリアにおける全てのフリーメイソンが活動を禁止されたために活動を停止し、その後は秘密裏に活動を行った。

その後第二次世界大戦において北イタリアがドイツ軍の占領下から解放され、イタリア社会共和国(サロ政権)が崩壊しフリーメイソンの活動が解禁された1945年に、「Propaganda Due」の名でフリーメイソンのグランド・ロッジ「イタリア大東社」傘下のロッジとして活動を再開した。

しかしその後1960年代に至るまで、その活動は政治的な色彩を帯びたものではない上に活発なものではなく、数回の会合を開いていた程度にすぎなかった。
ジェッリの入会と反共化リーチオ・ジェッリ

しかし1966年に、元ファシスト党員で、反共極右政党であるイタリア社会運動(MSI)の幹部で、第二次世界大戦におけるドイツの戦犯容疑者のブラジルアルゼンチンなどの南アメリカ諸国への海外逃亡を幇助した「オデッサ」と手を組み助けた人物としても知られたリーチオ・ジェッリが入会してからは、ジェッリ自らが活動を活発化させ主導権を握り、1971年には代表(グランド・マスター=親方)に就任した。

またこの前後に、東西冷戦下のイタリアにおいてソビエト連邦と一定の距離を置く「ユーロコミュニズム」路線を敷いた、エンリコ・ベルリンゲル書記長率いるイタリア共産党が中道層の間にも支持を増し国政における議席を増やしたほか、首都ローマや、ボローニャフィレンツェなどの大都市の首長に共産党員が選出されるなど、西側諸国の1国であるイタリアで、共産主義者の活動が活発化した。

またボリビアニカラグアなどの南アメリカ諸国においても、キューバチェ・ゲバラなどの共産主義者が率いるゲリラ活動家らが反軍事独裁運動に浸透を図る中で、当時のロッジP2はジェッリ代表の主導の元、これらの左傾化に危機感を持つイタリアの右派政治家イタリア軍人を中心に、アルゼンチンのファン・ペロン政権や、当時軍政下にあったブラジルやウルグアイチリなどの南アメリカ諸国の反共的な軍事政権の政治家や軍人もメンバーに持ち、さながら冷戦下における反共主義者の集まりとして活動していた。
違法活動ホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領

ジェッリ代表などを中心とした一部のメンバーが反共主義活動の一環として、左翼運動家や反政府ゲリラのみならず、政府批判を行った国民を弾圧していたアルゼンチンやウルグアイなどの南アメリカの軍事独裁政権や、民主的な選挙で選択された政権に対する軍事クーデターを起こそうと画策しているボリビアやチリの軍部に向けて、戦闘機ミサイル装甲車などの武器買い付けを行った。

なお、これらの南米諸国には古くからイタリア系移民が多く、軍首脳部にイタリア系移民の子孫も多かった。さらに、古くからドイツ系移民の子孫も多かった上に、第二次世界大戦後に南米諸国に亡命したナチス政権下のドイツ軍将校をアドバイザーとしていることも多かった。オットー・スコルツェニー

さらにジェッリ代表ら主要メンバーは、1970年代にアルゼンチンで反政府的な左翼運動家や反政府ゲリラに対して「汚い戦争」を進めていた、軍人出身のホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領を資金面で積極的に支援していた。しかしこれらの資金の多くが違法に調達されたものであった。また、1982年にアルゼンチンとイギリスとの間に起きたフォークランド紛争で、アルゼンチン空海軍機に搭載され、多くのイギリス海軍艦船を沈め有名になったフランス製の「エグゾセ・ミサイル」も、ジェッリ代表やメンバーにより調達されたものであることが明らかになっている。
元ナチスやCIAとの関係

なお、ジェッリ代表やアルゼンチンのメンバーは、第二次世界大戦後に戦犯容疑者となったものの、ジェッリやバチカンの協力を得てボリビアに逃亡した後に同国の軍事政権のアドバイザーを務めていた元ナチス親衛隊中尉クラウス・バルビーや、同じく元ドイツ軍士官でムッソリーニ救出作戦の指揮官として知られ、ドイツの敗戦後はスペインや南アメリカに亡命し暮らしていたオットー・スコルツェニーとも、これらの武器の輸出を通して関係を続けていた。

さらに、ジェッリ代表を含む複数のメンバーは、バルビーやスコルツェニーのみならず、冷戦下においてこれらの南アメリカの軍事独裁政権を同じく支援していたアメリカ合衆国中央情報局(CIA)との関係、さらには「グラディオ作戦」との関係も明らかになっている[1]
認証取り消し

この様な違法かつ倫理観に欠ける活動が明らかになったことが、当時共産党などの左翼政党が大きな勢力を維持していたイタリア国内で大きな疑惑と批判を浴び、1974年には「イタリア大東社」傘下のロッジとしての承認取り消しが提起され、1976年に「イタリア大東社」傘下のロッジとしての認証が取り消され、フリーメイソンから正式に破門されることとなった[1]

しかし、その後もジェッリは「イタリア大東社」内の他のロッジで活動を続けた上に、他のメンバーも、イタリアの政治家や軍人、極右活動家を中心に他のロッジのメンバーとなりつつ秘密裏に「ロッジP2」として秘密裏に活動を続け、言葉通りの「秘密結社」的存在として活動した。
コリエーレ・デラ・セラ紙への経営介入

その後1977年には、当時の与党であるキリスト教民主党との対立により、イタリアの主要銀行からの融資を止められ資金難に陥っていた日刊紙「コリエーレ・デラ・セラ」の親会社であるリッツオーリ社に、左派で知られたピエーロ・オットーネ編集長を解雇することを条件にジェッリが融資を持ちかけた。なお、リッツオーリ社のアンジェロ・リッツオーリ社長は「ロッジP2」のメンバーである[2]

その後ジェッリは、自らと関係の深かったバチカン銀行の総裁で、枢機卿でもあるポール・マルチンクスが違法に調達した資金をリッツオーリ社に提供し、その後オットーネ編集長は解雇された。以降同紙は現在に至るまで保守主義的な論調を取ることとなった。
ボローニャ駅爆破事件爆破されたボローニャ中央駅

1980年8月2日の朝に、ボローニャにあるボローニャ中央駅で爆弾テロ事件が発生し、駅舎と駅構内に停車していた客車が破壊され、これにより外国人を含む85人が死亡、200人以上が負傷した。


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