ロック・オペラ
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ロック・オペラ(Rock opera)とは、ロック・ミュージックの形式の一つで、ロックオペラのことである。
概要

従来のロック・アルバムは独立した曲を集めたもので、収録曲の間には何の関係もなかった。ロック・オペラは、アルバムに統一されたストーリーや一貫したテーマを持たせて、それを劇の形式で表現したものである。歌い手に劇中の登場人物の役が割り振られて、歌詞は一人称形式をとるのが基本である。

音楽や演劇の専門書の中にはロック・オペラという言葉を誤りとするものがあるが、オペラとは歌劇のことであり、オペラを「役を演じる歌い手たちによって展開される劇」と定義するならば、ロック・オペラという言葉は妥当であると考えられる[注釈 1]

アルバムがストーリーやテーマを持っていても、劇の形式を取っておらず歌い手がそれを歌うだけものは、コンセプト・アルバム[注釈 2]とされることが多い。つまり、ロック・オペラとは劇の形式を持ったコンセプト・アルバムである、と定義することもできよう。
歴史
1960年代

アメリカ合衆国のロック・ミュージシャンだったフランク・ザッパは、まだ無名だった1964年の夏に購入したカリフォルニア州クカモンガパル・レコーディング・スタジオをスタジオZと改名し、様々な活動を行なっていた。I Was a Teen-age Malt Shopは当時彼が手掛けた作品の一つで、NedとNeldaという父娘[注釈 3]を題材にしたロックン・ロールのオペラだった[1]。彼は同年12月に、この作品をCBSの番組プロデューサー[注釈 4]に聴かせて番組で特集させようとしたが、企ては失敗して作品は公表されなかった[1][注釈 5]。もしI Was a Teen-age Malt Shopが完成して発表されていたなら、ロック・オペラに相当する作品[注釈 6]の最も初期の例になっていたかもしれない。

ロック・オペラという言葉が公けに使われた最も初期の例は、トロントの雑誌「RPMマガジン1966年7月4日号である。「ブルース・コバーンと(ウィリアム・)ホーキンス氏がロック・オペラの準備中」と報道された[2]

同じく1966年イングランドロックバンドであるザ・フー[注釈 7]ピート・タウンゼントは、マネージャーのキット・ランバートの誕生日に、冗談で作った"Gratis Amatis"という楽曲のデモ・テープをランバートに聴かせた。イングランドの作曲家コンスタント・ランバートを父親に持つランバートは、クラシック音楽に造詣が深く、日頃タウンゼントにポップ・ミュージックの範疇を超えてクラシックのような壮大な曲を書くように提案していた。"Gratis Amatis"はランバートの提案に対するタウンゼントの応答で、BBCラジオのコメディ番組『ザ・グーン・ショー』で頻繁に使われたような高音の歌声で'Gratis Amatis'という言葉が10分間程繰り返されるアリアのような曲だった。居合わせた仲間達は大笑いし、その中の一人が「その変な歌はまるでロック・オペラだな」と言うと笑いは一層大きくなり、皆と一緒に笑っていたランバートも「そいつはいい!」と言った[3][4]

タウンゼントは同年、ザ・フーのセカンド・アルバム『ア・クイック・ワン』(1967年)の制作中、プロデューサーのランバートから短い曲を集めて10分程度の物語の曲を書くよう指示された。そこでタウンゼントは、アイヴァーという名前の機関士が若いガイドの娘を誘惑するという物語を含む[5]クイック・ワン」(A Quick One While He's Away)という約9分の曲[注釈 8]を書いた。この曲は物語の内容よりも彼等がミニ・オペラと呼んだ斬新な構造[6]が聴き手の注目を集め、のちにロックの新しいジャンルになるロック・オペラの原型になった。彼は次に、中華人民共和国に支配された1999年の世界を舞台にした20分以上にも及ぶオペラ形式の曲を書いたが、この曲は度重なる改作を経て6分程度にまで短縮され、ザ・フーのサード・アルバム『セル・アウト』(1967年)に「ラエル」(Rael)として収録された[注釈 9][7]

1967年5月には、ローマのパイパー・クラブで、ティート・スキーパ・ジュニアが、ビート・オペラなる『ゼン・アン・アレイ/Then an Alley』を企画・上演した。バックに「ボブ・ディランの曲18曲を流した」この作品は、イタリア国内では話題になったが、それ以外の国で取り上げられることはなかった。スキーパ・ジュニアはさらに『Orfeo 9』という舞台作品を書いた。これが最初の「イタリア語の」ロック・オペラで、初演は1970年1月だった。『Orfeo 9』は2枚組アルバムとテレビ映画[8]になった。ちなみにテレビ映画の音楽監督は、後のアカデミー賞受賞者ビル・コンティ[注釈 10]だった。

1967年、ヒッピー・ミュージカル『ヘアー』が「The American Tribal Love-Rock Musical」という副題をつけられて、ジョセフ・パップ・パブリック・シアターで初演された[9]。この作品は反戦、ヒッピー、フリーセックス、フリーラヴがテーマで、ヌードシーンも登場する。1968年4月からブロードウェイで上演され大ヒットし、ロック・オペラではなくロック・ミュージカルの草分けと呼ばれるようになった。

同じく1967年、ドイツ出身でイングランドで活動していた音楽プロデューサーのマーク・ワーツ(Mark Wirtz)が『ティーンエイジ・オペラ』(A Teenage Opera)という企画を発案した。彼はイングランドのロック・バンドで自分がプロデュースしていたジ・イン・クラウド改めトゥモロウのヴォーカリストのキース・ウェストを起用して、1967年7月にシングル’Expert from ”A Teenage Opera”’を制作発表した[注釈 11][10][11]。このシングルはヨーロッパで人気を呼び、全英シングルチャートで最高位2位を記録した。しかし、後続のシングル2作[12][13]の売り上げがいずれも振るわず[14][15][注釈 12]、ワーツが契約していたEMIレコードに予算を削られてしまった[11]ので、『ティーンエイジ・オペラ』の企画は頓挫した[注釈 13]

1968年12月、イングランドのロック・バンド、ザ・プリティ・シングスが、セバスチャン・F・ソローという人物を主人公にした成年向けの物語を描いたアルバム『S.F.ソロウ』("S.F. Sorrow)を発表した[注釈 14]。物語のあらすじには後のロック・オペラに比べるとやや粗削りな感があったが、アルバム全体が一つの物語体のコンセプトを持っているという点でロック・バンドによる最初の試みとしての大きな価値を有しているのみならず、初のロック・オペラのアルバムとして認識される作品だった[注釈 15][16][注釈 16]

1969年には、5月にザ・フーが2枚組アルバム『トミー』、10月にイングランドのロック・バンドのザ・キンクスが『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』を発表した[注釈 17][16]


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