ロッキー・ホラー・ショー_(ミュージカル)
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この項目では、ミュージカルについて説明しています。このミュージカルを基にした映画については「ロッキー・ホラー・ショー」をご覧ください。

ロッキー・ホラー・ショー
The Rocky Horror Show
作曲リチャード・オブライエン
作詞リチャード・オブライエン
脚本リチャード・オブライエン
上演

1973 ウエスト・エンド

1974 ロサンゼルス

1975 ブロードウェイ

1975 映画

1975 リオデジャネイロ

1979 UKツアー

1980 USツアー

1984 UKツアー

1990 ウエスト・エンド再演

1991 UKツアー

1994 UKツアー

1994 ブエノスアイレス

1997 バルセロナ

1998 UKツアー

2000 ブロードウェイ再演

2002 UKツアー

2002 セントルイス

2006 UKツアー

2009 UKツアー

2013 UKツアー

2015 シドニー

2015 40周年生中継

2015 メルボルン

2016 UKツアー

2016 テレビ映画

2016 ブエノスアイレス

受賞イブニング・スタンダード賞ミュージカル作品賞
ウェブサイトhttps://www.rockyhorror.co.uk
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『ロッキー・ホラー・ショー』(The Rocky Horror Show)は、リチャード・オブライエン作詞作曲および脚本によるミュージカル。1940年代終盤から1970年代初頭までのSF映画B級ホラー映画のユーモラスなトリビュートである。婚約したばかりのカップルが嵐に遭い異性装マッドサイエンティストの家に辿り着き、フランケンシュタインのような人造人間で完璧な筋肉を持った「金髪で日焼けした」ロッキー・ホラーが登場する。

ジム・シャーマンがプロデュースおよび演出を担当し、オリジナル・ロンドン公演はロイヤル・コート劇場のシアター・アップステアにて1973年6月16日と18日にプレビュー公演が行なわれ、19日から正式に開幕した。ロンドンの様々な会場で上演され、2,960公演ののち1980年9月13日に閉幕した。1973年、イブニング・スタンダード賞ミュージカル作品賞を受賞した。1974年、ロサンゼルスにてアメリカ合衆国初上演され、9ヶ月公演で成功をおさめたが、1975年、ブロードウェイのベラスコ劇場で上演された際、トニー賞1部門、ドラマ・デスク・アワード3部門にノミネートされたにもかかわらずプレビュー公演3回、本公演45回で閉幕した。ウエスト・エンド再演、ブロードウェイ再演、イギリス・ツアー8回の他、6ヶ国の海外プロダクションも製作された。

1975年、オブライアンがリフ・ラフ役で映画『ロッキー・ホラー・ショー』が製作され、映画史上最長ロングラン上映となり、2016年にはテレビ映画『The Rocky Horror Picture Show: Let's Do the Time Warp Again 』が放送される。BBCラジオ2の必見ミュージカル作品に関する世論調査で第8位にランクインした[1]
経緯

1970年代初頭、職にあぶれた俳優リチャード・オブライエンは冬の午後の暇つぶしに『ロッキー・ホラー・ショー』を執筆した。若い頃からオブライアンはサイエンス・フィクションやB級ホラー映画に熱中し、『ロッキー・ホラー・ショー』にB級ホラー映画の何気ないユーモア、低俗なホラーの仰々しい台詞、スティーヴ・リーヴスの筋肉ネタ、1950年代ロックンロールを詰め込みたかった[2]。当初意図していなかったが異性装が主なテーマとなった。

オブライアンが未完の『ロッキー・ホラー・ショー』をオーストラリアの演出家ジム・シャーマンに見せると、シャーマンは新作上演によく使用されるチェルシースローン・スクエアにあるロイヤル・コート劇場のシアター・アップステアでの演出を決意した[3]。シャーマンは『ヘアー』、『ジーザス・クライスト・スーパースター』のオリジナル・オーストラリア・プロダクションの演出で地元の称賛を得ていた。シャーマンは『スーパースター』イギリス初演の演出のためロンドンに来ており、ヘロデ・アンティパス役を1度だけ演じたオブライアンと会ったのである。シャーマンは仲間のオーストラリア人女優ネル・キャンベルと長年装置デザインのパートナーであるブライアン・トムソンをプロダクションに引き入れた。

スター俳優ティム・カリーは初めて脚本を読んだ時のことを以下のように語った:.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ベイカー・ストリートはずれのパディントン・ストリートに住んでいて数軒離れた所に古いジムがあったためその舞台については聞いたことがあった。リチャード・オブライアンと道で会って、歌える筋肉質の男を探しにジムに行ったところだと言っていた。私はなぜ歌う必要があるのか聞いた。彼はミュージカルが出来上がったところだと言うので私は彼と話をしなければならないと思った。彼は私に脚本を与え、私は思った。これができたらすごいことになると[4]

オリジナル製作チームは、スー・ブレインが衣裳デザイン、リチャード・ハートリーが音楽監督(のちにピート・モスに交代)を担当した。マイケル・ホワイトもプロデューサーとして参加した。リハーサル段階で、題名は『They Came from Denton High 』となったが、シャーマンの提案によりプレビュー公演直前に『ロッキー・ホラー・ショー』になった[3][5]

2回のプレビュー公演後、間隔をあけずに1973年6月19日から7月20日までロイヤル・コート劇場の63席のシアター・アップステアにて上演された。出演者はティム・カリー、パトリシア・クイン、ネル・キャンベル(リトル・ネルとして)、ジュリー・コヴィントン、オブライアンなどで、徹底的なキャンプ様式で批評的にも商業的にも大成功をおさめた[6]。レコード・プロデューサーのジョナサン・キングが2日目の公演を観劇し、すぐに彼のレーベルであるUKレコードとオリジナル・キャスト・レコーディングの契約をした。当初キングは公演のプロモーションに積極的に参加し、ホワイトが主な経済的後援者であったがキングも後援者として参加した。

ロイヤル・コート劇場での成功により、1973年8月14日から10月20日までキングス・ロード近くの230席のチェルシー・クラシック・シネマに移行した[7]。11月3日からキングス・ロードから少し離れた500席のキングス・ロード劇場が半永久的な劇場となった。批評的称賛を受け、1973年、イブニング・スタンダード賞ミュージカル作品賞を受賞した。

1979年3月31日、キングス・ロード劇場公演が閉幕し、4月6日からコメディ・シアター(現ハロルド・ピンター劇場)で上演された。伝統的なプロセニアム・アーチの舞台で上演するのは初めてだったため、演出に変更が加えられた。またこれまで1幕ものであったが、休憩ありの2幕に分けられた。1980年9月13日、閉幕した。
あらすじ
第1幕

荒廃した映画館で働くアシュレット(トリクシー)は、バック・ヴォーカルである仮面をしたファントムたちと共に今夜の「映画」を紹介する(Science Fiction/Double Feature )。

高校時代からの親友ラルフ・ハプシャットとベティ・マンローの結婚式の帰り、ブラッド・メジャーズはベティの友人ジャネット・ワイズに愛を告白し(Dammit Janet )、2人は婚約する。 ナレーターが登場し、ブラッドとジャネットは婚約の報告のためにデントンを経ち、科学講師のもとに向かっている途中に暴風雨に遭うと解説する。道中2人の車はタイヤがパンクし、電話を探しに雨の中歩いて行くと古城にたどり着く(Over at the Frankenstein Place )。

ナレーターは、ブラッドとジャネットが不安ではあるが、全てを受け入れなければならないと解説する。ブラッドとジャネットが到着すると、せむしの雑役夫で住み込み執事のリフ・ラフが彼らに挨拶していると、彼の姉妹でメイドのマジェンダが登場する。リフ・ラフ、マジェンダ、そしてグルーピーのコロンビアが、配達員エディが配達に失敗したため不幸な境遇に陥れられたと語る(The Time Warp 注1)。


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