ロッキード
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ロッキード・コーポレーション
Lockheed Corporation本社所在地
アメリカ合衆国
カリフォルニア州バーバンク
設立1912年
業種航空宇宙
特記事項:1995年マーティン・マリエッタと合併でロッキード・マーティン
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L-1011 トライスター

ロッキード(Lockheed Corporation)は、アメリカ合衆国航空機メーカーで主に軍用機を製造していた。マーティン・マリエッタ社と合併し、現在はロッキード・マーティンである。
沿革

飛行機の製作をはじめたアイルランド系のアメリカ人、アラン・ロッキードとマルコム・ロッキード兄弟(Allan and Malcom Loughhead )によって1913年に「Alco Hydro-Aeroplane Company」が創設された。1926年には社名を「Lockheed Aircraft Corporation」に変更した。誰も彼らの名前を正しく発音できなかった為である[1](なお、日本に於いても当初ローグヒード社などと紹介されていた)。1920年代ジャック・ノースロップらの設計により、ベガなどの民間機で成功を収めたが、ノースロップがノースロップ社を設立して独立した後、アラン・ロッキードはこのロッキード航空機会社をデトロイト航空機(Detroit Aircraft Corporation )に売却した。大恐慌によりデトロイト航空機が破綻すると、1932年にロッキード社も倒産した。数日後に新しい投資家ロバート・グロスによってロッキードは買収され、すでにロッキードは会社との関係はなくなっていたが、ロッキードがふたたび社名になった。その後の第二次世界大戦で大躍進した。

第二次世界大戦後はL-749 コンステレーションL-1049 スーパー・コンステレーションダグラス社と旅客機の分野で覇を競うが、ジェット機への対応に乗り遅れ、1970年代にようやくL1011トライスター(エルテンイレブン・トライスター)を投入する。トライスターは先進的な装備を持つ優れた旅客機だったが、同時期に登場した同クラスのマクドネル・ダグラス DC-10と販売競争を行った挙句に経営が悪化する。1976年にこの機の売り込みに関するロッキード事件が明るみに出たこともあり、1981年に民間機事業から撤退した。

1993年ジェネラル・ダイナミクスの航空宇宙事業部を買収して戦闘機部門を強化し、1995年にはマーティン・マリエッタと合併して社名を「ロッキード・マーティン」に改め、宇宙開発やミサイル、電子システムの分野にも進出した。
スカンクワークス

社内には通常の設計部門とは別に少数精鋭の開発チーム「スカンクワークス」が設立され、U-2偵察機SR-71F-117ステルス攻撃機等の独創的な航空機を設計・開発した。
製品
軍用機F-22

戦闘機

P-38 ライトニング

F-22 ラプター

F-35 ライトニングII

F-117 ナイトホーク

F-104 スターファイター

F-94 スターファイア

YF-12

F-80 (P-80) シューティングスター


偵察機

U-2

A-12

D-21

SR-71 ブラックバード


哨戒機

S-3 バイキング

ハドソン

PV-1 ベンチュラ

PV-2 ハープーン

P2V ネプチューン

P-3 オライオン

C-130 ハーキュリーズ

輸送機

C-5 ギャラクシー

C-141 スターリフター

C-130 ハーキュリーズ

トライスター K1/KC1/C1/C2/C2A


練習機

T-33 シューティングスター

T2V シースター


攻撃ヘリコプター

AH-56 シャイアン


旅客機L-1649 スターライナーL-188 エレクトラ

L-1011 トライスター

ロッキード ジェットスター

L-188 エレクトラ

L-049 コンステレーション

L-749 コンステレーション

L-1049 スーパー・コンステレーション

L-1649 スターライナー


ロッキード L-10 エレクトラ

ロッキード L-14 スーパーエレクトラ

ロッキード L-18 ロードスター

ベガ

L-2000(超音速旅客機、計画中止)

船舶

シー・シャドウ (実験艦)
ミサイル

MIM-104 パトリオット

トライデント

ポラリス

鉄道小田急向ヶ丘遊園モノレール線

1950年代後半より航空機技術を応用したモノレール開発に着手。1959年時点では1両定員80名・最高時速75マイル(約120km)の案内輪型とレールの左右それぞれに1両あたり12席ずつを設けた小型輸送向けのサドルバッグ型の2種の跨座式と懸垂式の計3種を計画し建設費は1時間あたり1万人輸送の想定で高速道路の2分の1・地下鉄の3分の1を見込んでいた[2]シアトル万国博覧会でのサドルバック型跨座式線[2]、またロサンゼルスやワシントンD.C.にて市街地から郊外への案内輪型跨座式線の建設提案を行うも[2][3]、導入には至らなかった。

その後1962年に日本での導入を目指して川崎航空機工業川崎車輌日本電気西松建設などが出資し日本法人日本ロッキード・モノレール株式会社が設立され、川崎航空機岐阜工場内の試験線で案内輪型跨座式モノレールの研究を行った後小田急電鉄向ヶ丘遊園モノレール姫路市交通局の2社局に納入され、その後事業展開は見込めないと判断されたため1970年に同社は解散し日本向けの展開のみとなった。影響を受けて姫路市は1974年に車両維持困難を理由に運行を休止した後に正式廃止。向ヶ丘遊園モノレールも2000年に老朽化で運行休止、翌2001年に正式廃止された。


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