ロッキード事件
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最高裁判所判例
事件名外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄議院証言法違反被告事件
事件番号昭和62年(あ)第1351号
1995年(平成7年)2月22日
判例集刑集49巻2号1頁
裁判要旨

日本の刑事訴訟法上、刑事免責の制度を採用しておらず、刑事免責を付与して獲得された供述を事実認定の証拠とすることを許容していないものと解すべきである以上、アメリカ連邦法上に基づいて行われた嘱託証人尋問調書については、その証拠能力を否定すべきである。

特定機種の選定購入の勧奨は、一般的には、運輸大臣の航空運輸行政に関する行政指導として、その職務権限に属するものというべきである。

内閣総理大臣が行政各部に対し指揮監督権を行使するためには、閣議にかけて決定した方針が存在することを要するが、閣議にかけて決定した方針が存在しない場合においても、内閣総理大臣の地位及び権限に照らすと、流動的で多様な行政需要に遅滞なく対応するため、内閣総理大臣は、少なくとも、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部に対し、随時、その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有する。

大法廷
裁判長草場良八最高裁判所長官
陪席裁判官園部逸夫 中島敏次郎 可部恒雄 大西勝也 小野幹雄 三好達 大野正男 千種秀夫 高橋久子 尾崎行信 河合伸一
意見
多数意見園部逸夫 可部恒雄 大西勝也 小野幹雄 大野正男 千種秀夫 尾崎行信 河合伸一(以上8名全部の論点について)、1.については全員一致
意見草場良八 中島敏次郎 三好達 高橋久子(以上4名2.3.について)
反対意見なし
参照法条
刑訴法1条、刑訴法146条、刑訴法226条、刑訴法248条、刑訴法317条、憲法38条1項、憲法66条、憲法68条、憲法72条、刑法[注釈 1]197条1項、刑法[注釈 1]198条1項、運輸省設置法[注釈 2]3条11号、運輸省設置法[注釈 2]4条1項44号の9、運輸省設置法[注釈 2]28条の2第1項13号、航空法[注釈 3]100条1項、航空法[注釈 3]101条、航空法[注釈 3]1109条、航空法施行規則[注釈 4]210条1項、航空法施行規則[注釈 4]220条、内閣法4条、内閣法6条、内閣法8条
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最高裁判所判例
事件名外国為替及び外国貿易管理法違反、議院証言法違反被告事件
事件番号昭和61(あ)1297
1992年(平成4年)9月18日
判例集刑集第46巻6号355頁
裁判要旨

議院証言法により一個の宣誓に基づき同一の証人尋問手続においてされた数個の虚偽の陳述は、同法6条一項違反の罪として、一罪を構成する。

議院証言法8条(昭和六三年法律第八九号による改正前のもの)による告発が、同法六条一項違反の罪として一罪を構成する数個の陳述の一部分についてされた場合、告発の効力は、他の陳述部分にも及ぶ。

第三小法廷
裁判長可部恒雄
陪席裁判官貞家克己 園部逸夫 佐藤庄市郎
意見
多数意見全員一致
意見なし
反対意見なし
参照法条
議院証言法6条1項、議院証言法8条(昭和63年法律89号による改正前のもの)、刑訴法238条
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ロッキード事件(ロッキードじけん、英語: Lockheed bribery scandals)は、アメリカ航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件である。

この事件では日本やアメリカ、オランダヨルダンメキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。

なお、肩書きはいずれも事件発覚当時のものである。
概要田中角栄(左)とアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン

国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自民党衆議院議員で元内閣総理大臣田中角栄が、1976年昭和51年)7月27日受託収賄外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の疑いで逮捕され、その前後に田中以外にも政治家2名(運輸政務次官佐藤孝行と元運輸大臣橋本登美三郎)が逮捕された。

さらに収賄、贈賄双方の立場となった全日空社長若狭得治以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団CIAとも深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出した。また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。

この事件は1976年昭和51年)2月にアメリカ議会上院で行われた上院外交委員会多国籍企業小委員会[注釈 5]における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。
経緯
トライスターの販売不振全日空のL-1011 トライスター

1970年昭和45年)11月に初飛行し、1972年昭和47年)4月に運航が開始されたL-1011 トライスターは、大手航空機製造会社のロッキード社が、自社初のジェット旅客機として威信をかけて開発したもので、中二階の客室、貨物室構造に昇降機が設置された他、自動操縦装置については軍用機のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。

ロッキード社はレシプロ機時代にはロッキード コンステレーションシリーズで一世を風靡したものの、ジェット化の波には乗り遅れてしまい、軍用機メーカーとしては屈指の大手になったものの、民間機市場での地位は低下してしまっていた。また、同社はベトナム戦争の終結によって赤字経営に転落していたことも相まって、トライスターで民間機市場での起死回生を狙っていたのである。

しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していたマクドネル・ダグラスDC-10や、1970年に初就航してから既に多くの発注を受けていたボーイング747との間で激しい販売競争に晒されていた。またL-1011 トライスターに搭載するロールス・ロイス社製ターボファンエンジンRB211」は、軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材ではバードストライクの衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、ファンブレードの材質を金属製に変更することになり、またその最中にロールス・ロイス社が破産・国有化されるなどして開発が遅れていたため、日本においても既に全日空のライバルである日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めた他、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。

このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者に様々な働きかけを行なっていた。
全日空の大型機選定作業

1970年(昭和45年)1月、全日空は昭和47年度の導入を目指して、若狭を委員長とする「新機種選定準備委員会」を設置しアメリカへ調査団を派遣するなどしたが、その後の全日空機雫石衝突事故ニクソン・ショックにより一時停止の憂き目を見た。1972年(昭和47年)に入り選定作業を再開し、メーカー側もまた7月23日から26日にかけて東京、大阪でデモフライトを実施するなど白熱化したが、当時は騒音問題がクローズアップされる中、全日空は低騒音性を重視していたところ、もともと低騒音性についてはロッキードL-1011に及ばないダグラスDC-10は、大阪空港に設置された騒音測定地点で急上昇して騒音測定を回避するなどした。DC-10はこの数か月前にエンジン脱落事故、貨物室ドア脱落事故などが相次ぎ、社内では同型機に対する安全性への不信感が大いに募ったという[1][注釈 6]

選定準備委員長らとともに各職場の意見を聴取したところ、整備、航本、運本の現業3本部に加え総合安全推進委員会などの技術部門はL-1011を、経理部はB747SRを推し、営業本部はL-1011、DC-10に意見が分かれていることが明らかになった。当時、騒音問題が激烈だったのは大阪空港であるが、その大阪空港支店の管理職45名のうち、33名がL-1011を推していたという[1]
トライスターの発注イギリス首相エドワード・ヒース

1972年(昭和47年)10月7日の同社役員会で若狭が役員に意見を求めたところ、技術部門担当役員の3名はL-1011を、技術担当以外ではDC-10が2名、B747SRが1名、L-1011が1名と分かれた。全会一致を求める若狭は、先にFAAの騒音証明を取り下げたダグラス社の騒音証明の結果が出るまで決定を延期した。10月22日を過ぎてダグラス社に問い合わせたところ、「雨が降ったので測定できなかった」旨の回答を得たのみで、騒音証明の見通しも得られなかった。10月28日に再度招集された役員会では、前回L-1011以外を推した役員も大勢に従う旨を述べた。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した[2]
チャーチ委員会ロッキードF-104J

田中が金脈問題で首相を辞任した約1年3カ月後、そして、全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年昭和51年)2月4日に、アメリカ議会上院で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行われていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった[注釈 7]。この1970年代はニクソン、フォードの共和党政権時で、多国籍企業小委員会のチャーチは民主党議員である。
明らかになっていく「工作」児玉誉士夫(前列左、1953年)。

さらにその後公聴会において、ロッキード副会長アーチボルド・コーチャン(英語版)と元東京駐在事務所代表ジョン・ウィリアム・クラッター(John William Clutter)が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年昭和47年)10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として700万ドル(当時の日本円で21億円あまり)を渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。

2016年7月に放送されたNHKスペシャル未解決事件[注釈 8]でインタビューに応じた丸紅専務の大久保利春[注釈 9]の直属の部下でアーチボルド・コーチャンと折衝していた航空機課長坂篁一の証言によると、「5億円の現金は自分が角栄に渡すことを提案した。当時、トライスターの採用がほぼ決定していたこともあって、念押しをするために、また、P-3C対潜哨戒機)導入の為にロッキードに最低でも5億円を出させた。国産化されると丸紅には仲介手数料が入らない。軍用機ビジネスは魑魅魍魎だ」と語っている。国産化計画の責任者だった海上自衛隊の元幹部は、田中がハワイでの首脳会談から帰って来てから変わったと語っている。

また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山[注釈 10]が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていたチャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎[注釈 11]が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。
国会

チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭や渡辺副社長、前社長の大庭哲夫、丸紅会長の檜山廣や専務大久保利春、専務伊藤宏、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良[注釈 12]などが証人喚問され、この模様はテレビで全国中継された。

5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足した。その後、ロッキードから金を貰ったとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。

なお、三木の下でアメリカから資料をもらい調べていた当時の内閣官房副長官海部俊樹はインタビューで、「先輩たちから、『他国から資料を貰ってまで恥をさらすことはない、指揮権を発動すればいい』とか言われた。


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