最高裁判所判例
事件名外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院証言法違反被告事件
事件番号昭和62年(あ)第1351号
1995年(平成7年)2月22日
判例集刑集49巻2号1頁
最高裁判所判例
事件名外国為替及び外国貿易管理法違反、議院証言法違反被告事件
事件番号昭和61(あ)1297
1992年(平成4年)9月18日
判例集刑集第46巻6号355頁
裁判要旨
議院証言法により一個の宣誓に基づき同一の証人尋問手続においてされた数個の虚偽の陳述は、同法6条一項違反の罪として、一罪を構成する。
議院証言法8条(昭和六三年法律第八九号による改正前のもの)による告発が、同法六条一項違反の罪として一罪を構成する数個の陳述の一部分についてされた場合、告発の効力は、他の陳述部分にも及ぶ。
第三小法廷
裁判長可部恒雄
陪席裁判官貞家克己 園部逸夫 佐藤庄市郎
意見
多数意見全員一致
意見なし
反対意見なし
参照法条
議院証言法6条1項、議院証言法8条(昭和63年法律89号による改正前のもの)、刑訴法238条
テンプレートを表示
ロッキード事件(ロッキードじけん、英語: Lockheed bribery scandals)は、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年(昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件である。
この事件では日本やアメリカ、オランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。
なお、肩書きはいずれも事件発覚当時のものである。
概要田中角栄(左)とアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン
国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自民党衆議院議員で元内閣総理大臣の田中角栄が、1976年(昭和51年)7月27日に受託収賄と外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の疑いで逮捕され、その前後に田中以外にも政治家2名(運輸政務次官佐藤孝行と元運輸大臣橋本登美三郎)が逮捕された。
さらに収賄、贈賄双方の立場となった全日空社長若狭得治以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団やCIAとも深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出した。また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。
この事件は1976年(昭和51年)2月にアメリカ議会上院で行われた上院外交委員会多国籍企業小委員会[注釈 5]における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。
経緯
トライスターの販売不振全日空のL-1011 トライスター
1970年(昭和45年)11月に初飛行し、1972年(昭和47年)4月に運航が開始されたL-1011 トライスターは、大手航空機製造会社のロッキード社が、自社初のジェット旅客機として威信をかけて開発したもので、中二階の客室、貨物室構造に昇降機が設置された他、自動操縦装置については軍用機のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。
ロッキード社はレシプロ機時代にはロッキード コンステレーションシリーズで一世を風靡したものの、ジェット化の波には乗り遅れてしまい、軍用機メーカーとしては屈指の大手になったものの、民間機市場での地位は低下してしまっていた。また、同社はベトナム戦争の終結によって赤字経営に転落していたことも相まって、トライスターで民間機市場での起死回生を狙っていたのである。
しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していたマクドネル・ダグラスのDC-10や、1970年に初就航してから既に多くの発注を受けていたボーイング747との間で激しい販売競争に晒されていた。またL-1011 トライスターに搭載するロールス・ロイス社製ターボファンエンジン「RB211」は、軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材ではバードストライクの衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、ファンブレードの材質を金属製に変更することになり、またその最中にロールス・ロイス社が破産・国有化されるなどして開発が遅れていたため、日本においても既に全日空のライバルである日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めた他、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。
このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者に様々な働きかけを行なっていた。 1970年(昭和45年)1月、全日空は昭和47年度の導入を目指して、若狭を委員長とする「新機種選定準備委員会」を設置しアメリカへ調査団を派遣するなどしたが、その後の全日空機雫石衝突事故、ニクソン・ショックにより一時停止の憂き目を見た。
全日空の大型機選定作業