ロス暴動
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ロサンゼルス暴動(ロサンゼルスぼうどう、英:Los Angeles Riots; LA Uprising[1]) は、1992年4月末から5月初頭にかけて、アメリカ合衆国ロサンゼルスで起きた大規模な暴動[2]。アメリカにおいて異人種間の対立という形を取って現れる「人種暴動(race riot)」の典型的なものとして知られる[3]

単なる黒人白人の対立にとどまらず、ロサンゼルスという多人種都市において様々な人種を巻き込んで広がったこと、また被害がきわめて大きかったことなどから、多くの映画小説でも描かれ、現代アメリカ文化において頻繁に参照される重要事件のひとつとなっている[4][5]。 日本ではしばしば「ロス暴動」とも略称される[6][7]
概要

直接のきっかけは1991年3月3日ロドニー・キングという黒人男性がロサンゼルス市内を運転中にスピード違反容疑で停止を命じられたのち逃亡し[8]現行犯逮捕された事件である[3]

このとき車を降りたキングが警官らの指示に従わなかったとして[8]、ロサンゼルス市警の警官4人が集団で激しい暴行を加えた。偶然撮影されたこのときの様子を全米のテレビネットワークが放送し、市警の対応に強い批判が起きた[2][8]

警官4人は暴行の容疑で起訴されるが、キングが仮釈放中だったことや飲酒運転の疑いがあったことなどから[8]、約1年後の1992年4月に無罪の評決を受けた[9]。この結果に対し、黒人社会を中心に広範囲で激しい抗議活動が起こり、一部が暴徒化して警察署・裁判所などが襲撃された[5]

この際に警察署以外に韓国系アメリカ人が経営する商店などでも6日間にわたって略奪が発生し、逮捕者1万人・被害総額10億ドルという大規模な暴動へ拡大した[2]。現代アメリカ史上、1980年のマイアミ暴動や、2015年にボルティモアで起きた抗議活動と並んで、人種間の衝突から発展した特に大きな暴動事件として知られている[3]

またこの暴動は、メディアの報道姿勢が大きく問い直されるきっかけともなった[4]。暴動の発生当初にアメリカ国内の主要メディアが、黒人と韓国系というマイノリティ同士の争いにすぎないと強調して事態を矮小化するため[10]、韓国系アメリカ人の黒人に対する差別意識や黒人社会との対立を大幅に誇張した報道を繰り返していたことが後に明らかになり[11][12][2]、メディア報道がはらむ人種的偏見の是正が以後のアメリカ社会で大きな課題となった[5]
経緯
ロドニー・キング事件

1991年3月3日、当時25歳だった黒人男性ロドニー・キングは、レイクビュー・テラス付近を運転中にロサンゼルス市警(以下「LA市警」)の警官らにスピード違反容疑で停車を命じられた[8][9]。2年前に起こしたコンビニ強盗事件の懲役から仮釈放中だったキングは再収監を恐れて逃走したが、警察車両による追跡のすえ強制的に停車させられる[13]

キングは車を降りたが、警官らによると、うつぶせになるようにとの指示に従わず[8]、また反抗的な態度を取ったとして[8]、警察官らがキングを取り囲んで装備のトンファーバトンやマグライトで殴打するなどの激しい暴行を加えた。偶然この様子を近隣住民がビデオカメラで撮影しており、この映像が全米で報道されたため、各地で警察側の対応を批判する声が高まった[10]

この事件でビデオに映り身元が分かった白人警官3人(ステーシー・クーン巡査部長、ローレンス・パウエル巡査、ティモシー・ウィンド巡査)とヒスパニック系警官1人(セオドア・ブリセーノ巡査)の計4人が起訴された。裁判では、警察側は「キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかった」と主張した[14]

報道された暴行現場の映像では、おとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打されていたが、こちらは証拠として採用されなかった[12]。暴行は苛烈をきわめ、キングはあごと鼻を砕かれたほか脚と腕の重度骨折・眼球破裂などの重傷を負っていたが、これも裁判では重視されなかった[12]。また暴行後に病院に搬送されたキングからアルコールが検出され飲酒運転の疑いが濃かったこともキングに不利に働いた[15]

こうしたことから、事件発生から1年が経過した1992年4月29日、ヴェンチュラ郡上級裁判所において陪審団無罪評決を下した[16]。裁判所のあったシミバレーは白人住民が多く、陪審員の過半数も白人だったことが無罪評決となった原因の一つであるといわれる[12]
警察署襲撃4,000人を超える連邦軍部隊(陸軍、および海兵隊)が投入された。

無罪評決が出たことが報道されると、黒人社会を中心に憤激が高まり、まず裁判所や警察署などを取り囲んで大規模な抗議集会が行われた[16]。ほどなくしてその一部が暴徒化し、まず警察署を襲撃、ついでロサンゼルス市街で商店への放火や略奪をはじめた[2]

小規模な暴動及び抗議の動きはロサンゼルスだけではなくラスベガスアトランタサンフランシスコをはじめとしたアメリカ各地、およびカナダの一部にまで波及した[17]。多くの抗議活動では、警察の過剰な取り締まりと無罪評決を強く批判するプラカードが掲げられた[18]

暴動が発生すると、LA市警は現場に黒人警官のみを行かせるよう編成し、現場近くにいた白人制服警官達には「現場に近づくな」との命令が発せられていた[11]。しかし暴動がさらに拡大すると、主な襲撃目標となったLA市警は自らを守るだけで手一杯の状況となり、暴動を取り締まることはできなくなっていった[18]
レジナルド・デニー集団暴行事件

市内の一部地域で略奪行為が始まるなか、最初の著名な被害者となったのはトラック運転手のレジナルド・デニー(英語版)だった。白人のデニーは抗議が過激化しはじめた4月29日の夕方5時すぎ、交差点で停車中に興奮した暴徒に襲撃され、トラックから引きずり出されて激しい暴行を受けた[19]。この襲撃の様子は、暴動取材のため上空を旋回していたテレビ局のヘリコプターによって撮影され、全米に中継された[20]

この映像をみた黒人を含む付近住民らが現場に集まり、暴徒を強くいさめてデニーを救出した[20]。しかし病院に搬送されたデニーは頭蓋骨を骨折しており、言語障害と歩行障害を負って以後何年にもわたってリハビリ治療を受けることになった[21]
韓国系商店への襲撃中心部のハリウッド大通りで黒煙が上がる様子(撮影日不明)。

警察署と並んでもうひとつの主たる襲撃対象となったのが、韓国系アメリカ人の経営する小規模商店である。襲撃による被害額の半分弱が韓国系アメリカ人の雑貨店・食料品店であるとされる[注釈 1][22]

襲撃された商店の店主らは自衛のため暴徒へ向かって発砲を繰り返した。群衆の略奪から身を守る正当防衛とみなされたためその後も司法責任を問われることはなかったが[22]、暴徒へ発砲する映像がテレビで繰り返し流されたことも暴動を過激化させる一因になったとも指摘されている[5]

かつては黒人と韓国系市民との間の対立・確執が暴動時の韓国系商店襲撃へと結びついたと指摘されたことがあるが[23]、しかし専門家らによる大規模な追跡調査によると、韓国系市民の経営する商店が襲撃されやすかったのは、それが単に黒人が多く住むエリアで最も成功した目立つ店舗だったからである[2][4][14]

実際に襲撃を行って逮捕された黒人たちへの聞き取りでも、韓国系アメリカ人そのものへの憎悪・反感はほとんど見られなかった[2][4]

また韓国系アメリカ人の店に限らず、黒人・プエルトリコ系ラテン系など様々な人種の経営する店も無差別に略奪・破壊の対象となっている上[14]、店舗を略奪した者のうち相当数は中国人日本人フィリピン人などの店を襲ったと信じていた[5]
暴動激化

4月29日、1973年から黒人として初のロサンゼルス市長を務めていたトム・ブラッドリー(翌93年9月末退任)が非常事態を宣言すると、これに呼応してカリフォルニア州知事ピート・ウィルソンが2,000人の州兵派遣を決定した[24][25]。同日中に市内の高架道路を閉鎖する措置が取られ、これによって車社会であるロサンゼルスの移動は大きく制限された[26]現地へ派遣される連邦軍部隊(1992年5月1日撮影)。

翌30日、市長は暴動が激しかった一部地域に外出禁止区域を設定するが、暴動が激化すると、同日中に外出禁止を市内全域へと拡大した[27]。これにともなって市内では商店の営業が全面的に停止され、すべての学校が休校した[24]。同日、州知事はさらに2,000人の州兵増派を決定[26]

なおも暴動は続いたため、翌5月1日には、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が陸軍海兵隊からなる4,000人にのぼる部隊と、さらに暴動鎮圧の特殊訓練を受けた担当官1,000人の派遣を決定した[28]
暴動の収束へ

武力による鎮圧が進む一方、平和的な対話の呼びかけも始まった。同日、暴行で重傷を負い治療を続けていたロドニー・キングが、事件以後はじめてカメラの前に姿を現し、「言いたいことはひとつだけだ。仲良くやっていけないのか?」と暴動の収束を呼びかけた[25]

翌2日にはコリアタウンアジア系・白人・黒人らからなる3万人規模の抗議集会が開かれ、略奪行為の即時中止を訴えた[28]。また翌3日、当時の黒人社会で絶大な人気を誇っていた活動家ジェシー・ジャクソンがコリアタウンを訪れて韓国系アメリカ人の代表者らと面会、異人種間対話のための場を設けると宣言した上で、黒人コミュニティに暴動・略奪へ加わらないよう求めた[26]

こうした動きが重なり、5月3日になってようやく各地で暴動が沈静化しはじめる。5月4日には日中の市内の非常事態宣言・外出禁止令が解除され、商店の営業や学校の授業が再開された[24]。これと前後して連邦司法省は、無罪評決を受けた4人の警察官を、公民権法侵害(第7篇:人種差別行為禁止)の容疑で再捜査すると宣言した[28]。こうして6日間にわたる大規模暴動はようやく収束した。
被害規模

一連の暴動・略奪によって、死者63名[29]、負傷者2,383名、逮捕者1万2,000名を出した[30]。またおよそ3,600件の火災が発生し、1,100件の建物が破壊され、4,500の店舗や企業が略奪や打ちこわしにあった[30]。被害総額は10億ドルにも及ぶ[2]。被害の多くは韓国系アメリカ人が所有する建物や企業に集中している[4]。また死者の44%が黒人、31%がラテン系、22%が白人という調査結果が出ている[30][3]

コリアタウンでの被害が拡大したのは、ロサンゼルス市警が白人からの通報に比べて韓国系アメリカ人やメキシコ系移民からの救援要請に対しては迅速に対応しなかったことも原因のひとつとされており[30]、のちにアジア系やプエルトリコ系・ラテン系など、人種的マイノリティ市民の団体が共同で非難声明を出している[4]


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