ロスチャイルド家
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「ロスチャイルド」は家系そのものについて説明しているこちらの項目へ転送されています。

英国男爵位については「ロスチャイルド男爵」をご覧ください。

1940年公開のプロパガンダ映画については「ロスチャイルド家 (映画)」をご覧ください。

ロスチャイルド家
Rothschild

過去の綴りred shield
民族ユダヤ系ドイツ人

出身地神聖ローマ帝国フランクフルト・アム・マインフランクフルト・ゲットー
現居住地西ヨーロッパ
家祖マイアー・アムシェル・ロートシルト(1744 - 1812)
著名な人物アムシェル・マイアー・フォン・ロートシルト
ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルト
ネイサン・メイアー・ロスチャイルド
カール・マイアー・フォン・ロートシルト
ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド
親族ギネス家
伝統ユダヤ教
ゴットロートシルト

ロスチャイルド家(ロスチャイルドけ、Rothschild、「ロスチャイルド」は英語読み。ドイツ語読みは「ロートシルト」。フランス語読みは「ロチルド」[1])は、フランクフルト出身のユダヤ人富豪で、神聖ローマ帝国フランクフルト自由都市のヘッセン=カッセル方伯領宮廷ユダヤ人であったマイアー・アムシェル・ロートシルト(1744-1812)が1760年代に銀行業を確立したことで隆盛を極めた[2]。それまでの宮廷関係者とは異なり、ロスチャイルドは富を遺すことに成功し、ロンドン、パリ、フランクフルト、ウィーン、ナポリに事業を設立した5人の息子[3]を通じて国際的な銀行家を確立した。一族は神聖ローマ帝国やイギリスの貴族階級にまで昇格した[4][5]。ロスチャイルド家の歴史は16世紀のフランクフルトに始まり、その名は1567年にイサク・エルチャナン・バカラックがフランクフルトに建てた家「ロスチャイルド」に由来している。

19世紀のロスチャイルド家は、近代世界史においても世界最大の私有財産を有していた[6][7][8]。20世紀に入ると、一族の資産は減少し、多くの子孫に分割された[9]。現在、彼らの権益は、金融、不動産、鉱業、エネルギー、農業、ワイン醸造、非営利団体など、多岐にわたっている[10][11]。また、ロスチャイルド家の建物は、ヨーロッパ北西部の風景を彩っている。

ロスチャイルド家はしばしば陰謀論の対象となっており、その多くは反ユダヤ主義に由来している。ロスチャイルド家(ロートシルト家)の紋章。この紋章は1822年にオーストリア政府(ハプスブルク家)より、男爵の称号とともに授けられた。盾の中には5本の矢を持った手が描かれ、創始者の5人の息子が築いた5つの家系を象徴している。盾の下には、ロスチャイルド家の家訓であるConcordia, Integritas, Industria(調和、誠実、勤勉)という銘が刻まれている[12]

本項ではロスチャイルド家が所有する企業ロスチャイルド&カンパニーの日本法人名である『ロスチャイルド・アンド・コー・ジャパン株式会社』が登記するカタカナ転写に準じて『ロスチャイルド』とする。
概要
国際協調の成果と限界

18世紀後半にフランクフルトゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身のマイアー・アムシェル・ロートシルトが銀行家として成功し宮廷ユダヤ人となった。彼の5人の息子がフランクフルト(長男:アムシェル[注釈 1])、ウィーン(二男:ザロモン)、ロンドン(三男:ネイサン)、ナポリ(四男:カール)、パリ(五男:ジェームス)の5か所に分かれて銀行業を拡大させた。二男と五男は鉄道事業へ出資をして創設に関わった[注釈 2]。この他、一家はスペインのMZA鉄道(マドリード・サラゴサ・アリカンテ鉄道)と上部イタリア鉄道(Societa per le Ferrovie dell'Alta Italia)もファイナンスした[13][14]。近代化しつつあった郵便事業にも関わっていた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}記事には[要説明]ロスチャイルド家所有の建築物が多数掲示されている。その大部分は大不況 (1873年-1896年) のときに築造・再建・取得されている。もっとも、写真がないシャトー・ド・プレニーは1858年に落成し、大不況をすぎた1900年に遺贈された。

豪邸は大きな影をつくる。オスマン債務管理局をめぐり債権国同士が対立し、ロスチャイルド家の国際協調に限界を知らしめたのである。1901年にフランクフルト家とナポリ家は閉鎖した。前者の銀行は同年ディスコント・ゲゼルシャフトに吸収された。列強各国の投資が東欧で入組み、そのまま第一次世界大戦が起こった。ウィーン家はサン=ジェルマン条約により延命されたが、ドーズ案の出るころ財政が危機的となった。ウィーン家のクレディト・アンシュタルトにアングロ・オーストリアン・バンクが買収され、内側から外資を誘導し、クレディト・アンシュタルトが世界恐慌で破綻したときに独墺関税同盟を破棄させた。1934年、オーストリアで2月内乱が起こった。この動きがチェコスロバキアに飛び火した1938年、ウィーン家も閉鎖した。

ロンドン家とパリ家は現在まで残っている。両家は日露戦争のころ日本政府へ巨額を貸し付けた歴史をもつが、それでさえ普仏戦争の賠償シンジケートに比べると彼らの仕事では小さい方である[注釈 3]。とはいえ、ロンドン家のシンジケートは関東大震災後の復興融資を通して日本経済に深く浸透した[注釈 4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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