ロスチスラフ2世
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ロスチスラフ2世
Ростисла?в Рю?рикович
キエフ大公
ロスチスラフ2世の死
在位1204年 - 1205年

出生1172年

死去1218年以降

配偶者ヴェルフスラヴァ・フセヴォロドヴナ
子女エヴフロシニヤ
父親キエフ大公リューリク
母親アンナ・ユーリエヴナ
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ロスチスラフ2世(ロスチスラフ・リュリコヴィチ)(ロシア語:Ростисла?в Рю?рикович、1172年 - 1218年以降)は、オーヴルチ公・キエフ大公リューリクと二度目の妻(トゥーロフ公ユーリーの娘)との間の子。トルチェスク公:1195年 - 1205年キエフ大公1204年 - 1205年、ヴィシゴロド公:1205年 - 1218年オーヴルチ公:1210年 - 1218年[1]ガーリチ公1210年[2]
ロスチスラフ2世に関する記述群

ラヴレンチー年代記』には、1189年ごろにベルゴロドを領土としていたことが記述されている。また、『イパーチー年代記』には、1190年ごろトルチェスクポロシエの中心的都市。現存せず。)を所領としていたという記述がある。また同じころポロヴェツ族との戦いに勝利したが、その時は確定的な勝利にはいたらず、真に勝利を収めたのは1193年のこととされる。

1195年、妻の父・フセヴォロドから、ボグスラフトリポリエコルスンを与えられた。また1198年ごろにはヴィシゴロドを所領にしていたと伝わる。

1203年ロマンによって、父のリューリクが剃髪させられ、修道院に送られた際に、ロスチラフは牢に入れられた。しかし、妻の父フセヴォロドが解放を要求したため、ロマンはロスチラフを解放し、さらにキエフ大公の座に就かせた。ロスチラフは翌年まで大公の座にあった。

その他のロスチラフに関する記述としては、『ラヴレンチー年代記』の1206年に、ロスチラフはヤロスラフ・ウラジミロヴィチをヴィシゴロドから追放したという記述がある。またある年代記には、1210年に白髪となったロスチラフはガーリチから追放されたという主旨の記述がある。
妻子

1188年6月30日、フセヴォロドの娘・ヴェルフスラヴァと結婚した。またエヴフロシニヤという娘がいた。
出典^ Л. В. Войтович ⇒Додаток 1. Державн? утворення на укра?нських ? сум?жних з ними землях та ?хн? правител? XIII ? першо? половини XVII ст. // ⇒?СТОР?Я УКРА?НСЬКО? КУЛЬТУРИ Том 2 (Укра?нська культура XIII ? першо? половини XVII стол?ть)
^М. Грушевский по Воскресенской летописи

先代
ヤロスラフヴィシゴロド公
1205年 - 1218年次代
ロスチスラフ

先代
リューリクオーヴルチ公
1210年 - 1218年次代
ウラジーミル4世










キエフ大公


アスコルド862?882)

ジール862?882)

オレグ882?912

イーゴリ1世913?945

オリガ945?964)

スヴャトスラフ1世945?972

ヤロポルク1世972?980

ウラジーミル1世978?1015

スヴャトポルク1世1015?1016

ヤロスラフ1世1017


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