ロジャー・フェデラー
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ロジャー・フェデラー
Roger Federer


2009年ウィンブルドンでのロジャー・フェデラー
基本情報
国籍 スイス
出身地同・バーゼル
生年月日 (1981-08-08) 1981年8月8日(42歳)
身長185cm[1]
体重85kg
利き手右
バックハンド片手打ち
ツアー経歴
デビュー年1998年
引退年2022年
ツアー通算111勝
シングルス103勝
ダブルス8勝
生涯通算成績1382勝368敗
シングルス1251勝275敗
ダブルス131勝93敗
生涯獲得賞金130,594,339アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪優勝(2004・06・07・10・17・18)
全仏優勝(2009)
全英優勝(2003-07・09・12・17)
全米優勝(2004-08)
優勝回数20(豪6・仏1・英8・米5)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪3回戦(2003)
全仏1回戦(2000)
全英ベスト8(2000)
全米3回戦(2002)
国別対抗戦最高成績
デビス杯優勝(2014)
ホップマン杯優勝(2001・18・19)
キャリア自己最高ランキング
シングルス1位(2004年2月2日)
ダブルス24位(2003年6月9日)
獲得メダル

テニス
オリンピック
2008 北京男子ダブルス
2012 ロンドン男子シングルス

2022年9月26日現在■テンプレート  ■プロジェクト テニス

ロジャー・フェデラー(Roger Federer ドイツ語発音: [?r?d??r ?fe?d?r?r]、1981年8月8日 - )は、スイスバーゼル出身の元男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス103勝、ダブルス8勝。身長185cm、体重85kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。

グランドスラム優勝回数歴代3位20勝。史上6人目のキャリア・グランドスラム達成者。芝コートでは無類の強さを誇り、ウィンブルドン最多8回優勝2003年からの5連覇を誇り「芝の王者」としての呼び声も高い。全米オープン最多連覇の5連覇、マスターズ1000では歴代3位となる28回の優勝記録を持つ。世界ランキング1位最長連続記録237週。ツアー通算111勝。スイス代表としても功績を残しており、2001年・2018年・2019年ホップマンカップで優勝、2008年北京五輪・男子ダブルス金メダル、2012年ロンドン五輪・男子シングルス銀メダル、2014年デビスカップ優勝に貢献した。2022年9月24日レーバーカップにてラファエル・ナダルとペアを組み、引退試合をした。
選手経歴
ジュニア時代2002年全米オープンでのロジャー・フェデラー

フェデラーは両親の影響から3歳のときに初めてラケットを握った。週末になると、父が勤める会社のテニスコートへ連れて行ってもらい、家族でテニスを楽しんだという。本格的にテニス競技に取り組むようになったのは8歳の時、母が彼を地元のテニスクラブに入会させてからだった。15歳になるとスイスの18歳以下のジュニアチャンピオンとなり、これを機にジュニア選手として本格的に世界を転戦。同年5月にイタリアのジュニア大会で優勝し、初めて国外のタイトルを手にした。
1998年 ジュニア世界1位

16歳で迎えた1998年はジュニア・サーキットを席巻。全米オープン・ジュニア準優勝をはじめ、オーストラリア・ジュニア・ヴィクトリア選手権、フィレンツェ国際ジュニア、マイアミ・オレンジボウルで優勝。ウィンブルドン選手権・ジュニアに至ってはシングルスとダブルスで優勝し、ジュニア世界ランキングも1位に上り詰めた。また、ATPツアーの2大会に招待枠で出場。ツアーデビュー戦となったスイス・オープン・グシュタードはルーカス・アーノルド・キブロンに 4-6, 4-6で敗れたものの、フランスのツールーズではギヨーム・ラウーを6-2, 6-2で下してツアー初勝利を飾り、次戦のリチャード・フロンバーグも下して準々決勝進出を果たした。こうしてツアーでも手応えを得たフェデラーは、いよいよプロ選手として活動して行くこととなる。
1999年 プロ転向

サーキットを卒業してプロとなった1999年は、世界ランキング302位から出発。チャレンジャーツアーとATPツアーを股にかけ、後者は主にワイルドカードを貰いながら転戦した。チャレンジャーは優勝1回、ツアーは準々決勝進出が2回、マスターズ・シリーズグランドスラムデビスカップの出場も果たした。また、当時のトップ選手であるカルロス・モヤセドリック・ピオリーンから金星を挙げた。9月に世界ランキング100位の壁を破り、64位でシーズンを終え、13勝17敗を記録した。
2000年 シドニー五輪4位

2000年2月、マルセイユに出場。ATPツアーで初めて決勝に進み、同胞マルク・ロセに6-2, 3-6, 6-7(5)で敗れた。3月、マイアミ・マスターズ2回戦で敗れてからは、5月末までに5大会連続初戦負けを喫するなど伸び悩み、大舞台で華々しい活躍を魅せる同世代のレイトン・ヒューイットマラト・サフィンらの影に埋もれていった。この頃のフェデラーは、センス溢れるプレーを魅せる一方で、熱くなり過ぎて自滅するなど、感情の制御に課題があった。しかし、シドニーオリンピック銅メダル決定戦でアルノー・ディ・パスカルに敗れた頃から急成長が始まる。10月はバーゼルで準優勝。11月にランキングを24位まで上げ、36勝30敗、準優勝2回でシーズンを終えた。
2001年 ホップマン杯初優勝

2001年1月、ホップマンカップでスイスの優勝に貢献。2月のロッテルダムは準優勝。続くミラン・インドアでは準決勝でエフゲニー・カフェルニコフを下し、勢いそのままに念願のATPツアー・シングルス・タイトルを手にした。更に全仏オープンで準々決勝に勝ち進み、活躍に弾みをつけた。そして6月、ウィンブルドンの4回戦に勝ち進み、優勝候補のピート・サンプラスと初対戦となった。当時のサンプラスはテニス界で一時代を築いており、特に同選手権では1993年から2000年に掛けて7度も制覇するなど絶対的な強さを誇っていた。サンプラス優位と予想される中、試合は序盤から拮抗した打ち合いが続いた。互いに2セットずつ奪い合って迎えた最終セット第9ゲーム、フェデラーがサービスゲームでミスを誘われブレークピンチを招いてしまう。いつものフェデラーなら感情的になって自滅する展開だったが、気持ちを切り替えてサンプラスに食らい付き、2度のデュースを凌いでサービスキープに成功。課題だった感情の制御を克服しつつある事を示した。そして第12ゲーム、今度はフェデラーがサンプラスのミスを誘ってブレークチャンスを掴み、最後はフォアハンドのリターンエースで決着をつけ、3時間41分に渡る7-6(7), 5-7, 6-4, 6-7(2), 7-5 の番狂わせを演じ切った。この一戦は大きな注目を集め、一躍フェデラーを時の人とし、サンプラス時代の終焉を予感させる出来事となった。この後、フェデラーはティム・ヘンマン戦で力尽き、準々決勝でウィンブルドンを去る事となる。この年はバーゼルでも準優勝し、ランキングを12位まで上げ、準優勝2回、優勝1回、49勝21敗でシーズンを終えた。
2002年 トップ10入り

2002年、グランドスラムは不本意な結果に終わるもマスターズ・シリーズで躍進をみせ、マイアミではレイトン・ヒューイットを下して準優勝。ハンブルクではマラト・サフィンを下して自身初のビッグ・タイトルを獲得。他のカテゴリーでは、シドニーウィーンで優勝。


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