ロジャー・ダルトリー
Roger Daltrey
2016年、カリフォルニア州オークランド公演に出演するダルトリー
基本情報
出生名Roger Harry Daltrey
生誕 (1944-03-01) 1944年3月1日(80歳)
出身地 ロンドン ハマースミス
ジャンルロック、ハードロック、アート・ロック、ポップ・ロック
職業シンガー、ソングライター、ミュージシャン、俳優、映画作家
担当楽器ボーカル、ギター、ハーモニカ、パーカッション
活動期間1959年 - 現在
レーベルVarious
共同作業者ザ・フー, RD クルセーダーズ
ロジャー・ダルトリー(Roger Daltrey、CBE、1944年3月1日 - )は、イングランドのロック・ミュージシャン、俳優。ロック・バンドのザ・フーのリード・ボーカリストとして最も有名である。俳優としても積極的に活動し、数多くの映画や演劇、テレビドラマに出演した。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第61位[1]。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第27位[2]。 1944年、ロンドンのイースト・アクトン
来歴
生い立ち - プロデビューまで
1961年、板金工として働きながら自身のバンド、ザ・ディトゥアーズでプロ・デビューを夢見ていたダルトリーは、中学時代の後輩でベースを抱えて歩いていたジョン・エントウィッスルを街で見かけ、ディトゥアーズに勧誘する。当時、エントウィッスルはスコーピオンズというバンドにいたが、ダルトリーと活動を共にすることを決めた[5]。1962年、前任のリズムギタリストに代わり、エントウィッスルのバンドメイトだったピート・タウンゼントが加入する[6]。タウンゼントの加入はエントウィッスルの要請によるものだったが、それ以前にダルトリーが先に目を付けており、ディトゥアーズへの加入を持ちかけていた[7]。当初はダルトリーがリードギタリストであったが、日中の仕事で時折手を負傷していたこともあり、1963年には自身の所有していたエピフォンのエレキギターをタウンゼントに売り、ボーカルの方に専念するようになる[8]。
ダルトリーはザ・ディトゥアーズの絶対的なリーダーであり、彼の音域でカバーできない曲を演目から外すなど、バンドを支配していた[8]。そのため、その絶対的立場に対して意見するようになったタウンゼンドとの間に、デビュー後も長らく続くことになる緊張感が芽生え始める[9]。一方、ダルトリーは車の運転や機材の搬送、エージェントとの交渉などロード・マネージャーの仕事を一手に引き受けていた。彼は「ピートに任せてたら、あいつは一日中ベッドに転がってマリファナにふけって、ライブなんかまともに出来やしなかったはずさ。誰かが奴らの面倒を見る必要があり、俺がその役目を果たしてたんだ」と語っている[10]。
1964年2月、バンド名をタウンゼントの友人であるリチャード・バーンズ(英語版)が提案したザ・フーに変更。初代ドラマーのダグ・サンダム(英語版)に代わり4月にキース・ムーンが加入した[注釈 1]。 ザ・フーは初代マネージャーのピート・ミーデン
1964年 - 1983年
1965年、デビュー・シングル「アイ・キャント・エクスプレイン」は全英シングルチャートの最高位8位を記録するヒットとなり、ザ・フーは上々の結果を残した。一方バンド内では深刻な対立関係が生じていた。タウンゼントは当時受けた取材で「ロジャーがサウンドの仕上がりに文句を付け、そのことで喧嘩になることが多い」と、バンドの内情を打ち明けている。これに加え、薬物に一切関わらなかったダルトリーに対し他の3人は薬物濫用に耽っていたことも、両者の対立を深める要因となっていた[13]。同年9月のデンマークでのツアー中、楽屋で覚醒状態になったムーンに激昂したダルトリーは彼の錠剤をトイレに流した挙句、それを知って逆上したムーンを殴って気絶させた[14]。他の3人は全員一致でダルトリーの解雇を決めたが、3枚目のシングル「マイ・ジェネレーション」が全英チャートに16位で初登場して最高位2位という好調な売り上げを見せると、ダルトリーは3人に謝罪し、ランバートらの説得も功を奏して、処分を何とか免れた[13]。この騒動はその後も尾を引き、「マイ・ジェネレーション」がヒット・チャートを賑わせている最中の11月には、ザ・フーからダルトリーが脱退してボズ・ピープル(Boz People)のボーカリストだったボズ[注釈 2]が加入予定、という飛ばし記事がメロディ・メーカー誌に掲載された[15]。
対立はこれで収まらず、1966年の5月3日には再びダルトリーが脱退を表明したので[16]、タウンゼント達は2週間ほど、彼抜きでギグをこなした[17]。ダルトリーが戻った同月20日にはムーンが脱退を宣言し、1週間ほど仕事を放棄した[18]。