ロジャー・ゼラズニイ
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ロジャー・ゼラズニイ
Roger Zelazny
ペンネームハリスン・デンマーク
Harrison Denmark
誕生Roger Joseph Zelazny
(1937-05-13) 1937年5月13日
オハイオ州ユークリッド
死没1995年6月14日(1995-06-14)(58歳)
ニューメキシコ州サンタフェ
職業作家
国籍 アメリカ合衆国
ジャンルファンタジーSF
文学活動ニュー・ウェーブ(本人は否定している)
代表作『光の王』、真世界アンバーシリーズ
影響を与えたもの

ニール・ゲイマンサミュエル・R・ディレイニージョー・ホールドマンハーラン・エリスンロバート・シルヴァーバーグジョージ・R・R・マーティン

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ロジャー・ゼラズニイ(Roger Joseph Christopher Zelazny, 1937年5月13日 - 1995年6月14日)は、アメリカ合衆国小説家SF作家ファンタジー作家。ゼラズニイ(早川書房東京創元社サンリオ)の表記はセラズニイ(サンリオ)、セラズニィ(角川書店)、ゼラズニーとも。ネビュラ賞を3度、ヒューゴー賞を6度受賞し、長編では『わが名はコンラッド』(1965年)と『光の王』(1967年)で受賞している。

神話をモチーフにした華麗なスタイルとアクションが人気を呼ぶ。1960年代に、サミュエル・R・ディレイニーハーラン・エリスンらとともにアメリカン・ニュー・ウェーブとも呼ばれた。1970年代以降は、ファンタジーSFを融合させた作品を多く書いた。また、ジョージ・R・R・マーティンらと共に、多数の作家が競作形式で小説を書くシェアード・ワールドSF小説「ワイルド・カード」にも参加した。

貝虫亜綱の Sclerocypris zelaznyi は彼にちなんで命名された[1]
生涯

ポーランド移民の父とアイルランド系アメリカ人の母の一人息子としてオハイオ州ユークリッドに生まれた。高校では校内新聞の編集長を務め、Creative Writing Clubにも入会していた。1953年、"Conditional Benefit" という作品がファンジン (Thurban 1 #3) に初めて掲載された。また、1954年には商業誌にファンタジーの短編 "Mr. Fuller's Revolt" が売れている。

1955年、ウェスタン・リザーブ大学に入学し、心理学科を経て1959年英文学科卒業。同年ニューヨークのコロンビア大学に学士入学。1962年、エリザベス朝およびジェームズ朝演劇で比較英文学修士号取得。

1962年から1969年までクリーブランド社会保障局(社会保険局オハイオ支局)に勤め(後にボルチモアに転勤)、帰宅してからSFを書くという生活を開始した。1962年に短編「受難劇」(Passion Play) が『アメージング・ストーリーズ』誌に、「騎士が来た!」(Horseman!) が『ファンタスティック』誌に掲載されて作家デビュー。翌1963年にF&SF誌に発表した「伝道の書に捧げる薔薇」がヒューゴー賞候補となって脚光を浴びる。ショートショートから徐々に長い作品を書くようになっていき、1965年に長編を書くようになった。1966年、最初の長編『わが名はコンラッド』(This Immortal) を出版。1969年5月1日に仕事を辞め、専業作家となった。このころの彼は Baltimore Science Fiction Society の主要な会員であり、ほかにジョー・ホールドマンらも会員だった。

ゼラズニイは2回結婚している。1回目は1964年、2回目は1966年で、1961年ごろにもフォーク歌手と婚約していて破局したこともある[2]。2度目の結婚では2人の息子と1人の娘をもうけた。ゼラズニイが亡くなるころは別居状態で、ゼラズニイは女流作家 Jane Lindskold と住んでいた。

1960年代に結成された Swordsmen and Sorcerers' Guild of America (SAGA) というヒロイック・ファンタジー作家グループの一員でもあり、このグループの作家の作品はリン・カーターのアンソロジーに収録されている。

両親にカトリック教徒として育てられたが[2]、自らを「堕落したカトリック教徒」と称し、その姿勢は死ぬまで変わらなかった[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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