ロジャー・カービー
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ロジャー・カービー

プロフィール
リングネームロジャー・カービー[1]
リップ・カービー[1]
ザ・クルーザー[1]
カウボーイ・ボブ・ベーカ?[1]
ビリー・ベーカー[1]
ワイルド・ビル・ベーカ?[2]
本名Willis Kirby[1]
ニックネームネイチャーボーイ[3]
野生児二世
身長178cm[1]
体重110kg(全盛時)[1]
誕生日 (1939-12-14) 1939年12月14日[1]
死亡日 (2019-03-18) 2019年3月18日(79歳没)[4]
出身地 アメリカ合衆国
インディアナ州
デラウェア郡マンシー[1]
スポーツ歴ボクシング[2]
ボディビル[5]
デビュー1960年[5]
引退1986年[2]
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ロジャー・カービー(Roger Kirby、本名:Willis Kirby、1939年12月14日 - 2019年3月18日[4])は、アメリカ合衆国プロレスラーインディアナ州マンシー出身。

地元中西部NWAセントラル・ステーツ地区を主戦場に、ヒールのポジションで活動した[6]。主にタッグ屋として活躍したが、NWA世界ジュニアヘビー級王座戴冠をはじめ、シングルでも実績を残している[6]
来歴

インディアナ州で生誕後、ミズーリ州セントジョセフカンザスシティなどを転居[6]。ハイスクールではボクシングボディビルで活動し、卒業後ガラス工場で働いていたが、観戦していたプロレス興行でのレイ・スティーブンス&ロイ・シャイアーのヒールぶりに感銘を受けて1960年にプロレス入り[2]

デビュー後はワイルド・ビル・ベーカ?("Wild" Bill Baker)などのリングネームを用いていたが、「野生児」の異名を持ったNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースに風貌が似ていたことから、後に "ネイチャーボーイ" ロジャー・カービー("Nature Boy" Roger Kirby)またはロジャー "リップ" カービー(Roger "Rip" Kirby)を名乗り、ロジャースのスタイルを模倣したヒールとなって活動[2]

その後、アラバマNWAガルフ・コースト地区などで同タイプのデニス・ホールとの金髪タッグチームで活躍し、1967年7月には国際プロレスにホールと共に初来日[7][8]。8月14日に大阪で行われた国際プロレスと日本プロレスとの興行戦争では、大阪府立体育館のメインイベントでビル・ドロモと組み、ヒロ・マツダ&サム・スティムボートと対戦した[9]

ホールとのタッグ解消後の1968年5月10日、地元ミズーリ州セントジョセフにてロニー・エチソンからNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を奪取(以降、1982年にかけて同王座を通算8回獲得)[10]太平洋岸北西部オレゴン州ポートランドでは、1969年下期にムーンドッグ・メインとNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を争っている[11]1971年5月20日にはルイジアナ州ニューオーリンズダニー・ホッジからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取するなど[12]、各地で実績を築いた。

タッグ屋としての本領も発揮して、主戦場のNWAセントラル・ステーツ地区では1970年代前半、アンガス・キャンベルハーリー・レイスらをパートナーに北米タッグ王座を再三獲得[13]1973年から1974年にかけては、ロード・アルフレッド・ヘイズと組んでマイク・ジョージ&ジム・ブランゼルと同地区認定のNWA世界タッグ王座を争った[14]。1973年5月には、NWAルートで全日本プロレスに初参戦している(同時参加の外国人選手は、アブドーラ・ザ・ブッチャールーファス・ジョーンズリッパー・コリンズグレート・マレンコなど)[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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