ロジャー・ウィリアムズ
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ロジャー・ウィリアムズの彫像

ロジャー・ウィリアムズ(英:Roger Williams、1603年12月21日 - 1683年4月1日)はイギリス生まれの神学者政教分離原則の著名な提案者であり、アメリカインディアンの公正な扱いを主導し、アメリカ合衆国ロードアイランド州プロビデンス市の創設者であると共に、ロードアイランド植民地の共同設立者でもある。アメリカでは最初あるいは2番目のバプテスト教会を創立した。
伝記
生い立ち

ウィリアムズは1603年にイギリスのロンドンで、ピューリタンとして生まれた。父親はジェイムズ・ウィリアムズ (1562-1620)で、スミスフィールドの商人だった。母親はアリス・ペンバートン (1564-1634)といった。

著名な法律家エドワード・コーク卿 (1552-1634)の庇護の下、ウィリアムズはサットン病院とケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジで教育を受け、1627年に学士号を受けた。語学の才能に恵まれていたと思われ、早期にラテン語ギリシャ語オランダ語およびフランス語を習得した。5歳年下の詩人ジョン・ミルトンにオランダ語を教え、その代わりにヘブライ語を教えて貰った[1]

ケンブリッジを卒業したウィリアムズは、富裕な家庭の家付き牧師となった。1629年12月15日エセックスのハイレーバーの教会でメアリー・バーナード (1609-1676)と結婚した。夫妻には6人の子供が生まれたがすべてアメリカでだった。

1630年が終わる少し前に、ウィリアムズはウィリアム・ラウド大司教の厳格な(そして高教会派の)管理の下にあるイギリスでは働いていけないと考え国教反対の立場を採った。大学と国教会における昇進の話を蹴り、その代わりに自国では否定される良心の自由をニューイングランドに求めていくことにした。
アメリカへの移住

1630年、ロジャーとメアリーの夫婦はリヨン号でボストンに向かった。1631年2月5日に到着したウィリアムズは直ぐにロンドンへ戻る牧師の後釜に招かれた。ウィリアムズはそれが「非分離派の教会」であることが分かると申し出を辞退して、イギリスでしっかりと形成してきた分離派の見解を述べ始めた。特にウィリアムズは、偶像崇拝、安息日を破ること、偽りの崇拝をすること、および神への冒涜のような「十戒に対する違背」のどれも判事は罰することができないこと、あらゆる人は宗教的な事項において自分の良心に従う自由があると主張した。

最初の考え方の「判事は宗教的な違反を罰することができない」ということは、公共の権威は教会の権威とは同じであるべきでないということを意味した。二番目の考え方の「人々は宗教的な事項に自分の意見を持つ自由がある」ということを「精神の自由」と呼んだ。これはアメリカ合衆国憲法が保障する政教分離と個人の信教を選び実行する自由という基本の一つである(アメリカ合衆国憲法修正第1条を参照)。ウィリアムズの使った言葉の中で、宗教と他の事項の好ましい関係を説明するときに「分離の壁」(wall of separation)というのがあるが、これはウィリアムズが初めて使ったとされている。後にトーマス・ジェファーソンが教会と州の間の分離の壁について話した時の引用元であった可能性がある[2]

セイラムの教会は、プリマス植民地との交流を通じて分離派の考え方を採用していたが、そこがウィリアムズを教師に招いた。ウィリアムズの入植はボストンの指導者6人がセイラムのエンディコット知事に宛てた抗議によって妨げられた。プリマス植民地はウィリアムズを暖かく迎えたのでそこに2年間留まった。ブラッドフォード知事によれば、「彼の教えは良く受け入れられた」。
セイラムでの暮らしと追放セイラムでのウィリアムズの家。1910年の絵はがき。

プリマスでの牧師生活の終り頃、ウィリアムズの見解は植民地の他の者たちと論争を呼ぶようになった。プリマスの人々は直ぐにウィリアムズの考え方が分かり、特にインディアンに関してあまりに同情的であるとみなしたので、ウィリアムズはプリマスを去ってセイラムに戻った。

1633年の夏にセイラムに到着し、スケルトン牧師の非公式な助手になった。


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