ロジャー・イーバート
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ロジャー・イーバート
2007年12月5日撮影
誕生ロジャー・ジョゼフ・イーバート
(1942-06-18) 1942年6月18日
アメリカ合衆国 イリノイ州アーバナ
死没 (2013-04-04) 2013年4月4日(70歳没)
アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
職業著述家ジャーナリスト映画評論家、シナリオ作家
言語英語
国籍 アメリカ合衆国
最終学歴シカゴ大学
イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校
活動期間1967年 - 2013年
主題映画
代表作『The Great Movies』
主な受賞歴

ピューリッツァー賞映画評論部門

配偶者チャス・ハマースミス
(1992年7月18日-2013年4月4日)
影響を与えたもの

A・O・スコット[1]
リチャード・コーリス
ジェームズ・ベラルディネッリ[2]
マイケル・フィリップス[3]
ウィル・リーチ[4]
ハリー・ノウルズ[5]
デイヴィッド・ボードウェル[6]

公式サイト ⇒http://www.rogerebert.com
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ロジャー・ジョゼフ・イーバート(Roger Joseph Ebert、1942年6月18日 - 2013年4月4日)は、エミー賞にもノミネートされたアメリカ合衆国映画評論家、テレビ司会者、作家。新聞、テレビ番組、著作、講演活動や教授職、自身のウェブサイトを通じて多くの人々に映画の観方や受容の仕方を紹介したり知られざる名作を紹介したりするなどアメリカで最も有名で、信頼される映画評論家であった。また、新作映画評での手厳しさから映画関係者には非常に恐れられていた。

イーバートは1967年以来、シカゴ・サンタイムズで映画評を執筆しており、アメリカ内外の200以上の新聞に配信されていた。1975年にはこの連載に対し、映画評論家としてはじめてピューリッツァー賞の批評部門を受賞した。また23年間に渡りジーン・シスケル1946年 - 1999年)と共に映画を批評するテレビ番組の司会を務め、シスケルの死後はリチャード・ローパーとコンビを組んで司会を続けていた。著書は、毎年発行している年鑑も含め15冊以上を数えている。1999年からはイリノイ州シャンペーンで毎年映画祭も主催していた。

2005年6月には映画評論家としてはじめてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星にその名を刻まれている。また、コロラド大学アメリカン・フィルム・インスティチュートシカゴ美術館附属美術大学から名誉学位を受けている。1995年2月には、彼らの番組を収録しているシカゴのCBSスタジオ前のエリー通りの一部が「シスケル&イーバート通り」と命名された。
学生時代

イーバートはイリノイ州アーバナで生まれ、少年時代にSF同人誌へのコメント投稿から物書き人生をスタートさせた。アーバナ高校の学生時代、隣接するシャンペーン市のニューズ・ガゼット紙でスポーツ・ライターになったことでジャーナリズムに興味を持ち、上級生になると学校新聞の副編集長となった。1958年、イーバートはイリノイ州高校スピーチ連盟選手権で、ラジオのニュース番組と同様の原稿を読んで競うラジオ・スピーチ部門において優勝した。

イーバートはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校に入り、学生新聞ザ・デイリー・アライナイで編集長を務めた。イーバートの最初の映画評は、1961年10月のザ・デイリー・アライナイに掲載した『甘い生活』の批評だった ⇒[5]

イーバートは国際ロータリー奨学金制度を受けてケープタウン大学大学院で英語を研究し、シカゴ大学の英語学の博士課程に在籍中、シカゴ・サンタイムズから同紙の映画評論家になるよう勧誘された。
評論家としてロジャー・イーバート(右)と映画監督ラス・メイヤー1970年

1967年、イーバートは評論家としてのキャリアを開始した。1969年には『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を評した記事がリーダーズ・ダイジェストに転載されるなど評価は高まり、1975年にはイーバートのサンタイムズの映画評はピューリッツァー賞批評部門に輝いた。

1976年、イーバートはシカゴ・トリビューン紙の映画記者ですでにテレビ番組の司会も行っていたジーン・シスケルと組み、シカゴの公共テレビ局WTTW制作による映画レビュー番組『スニーク・プレビューズ(Sneak Previews)』の司会を始めた。この番組では二人が新作映画2本を紹介し、見所や評価を論じあうほか、番組最後には「ドッグ・オブ・ザ・ウィーク」と称してそれぞれがその週最悪の映画をユーモラスにこき下ろすコーナーもあった。1978年には公共放送ネットワークPBSによって全国へ配信され人気番組となった。1982年、二人はトリビューン・グループの経営する商業放送局に移籍し『アット・ザ・ムービーズ(At the Movies)』の司会となり、後にディズニー傘下のブエナ・ビスタ・テレビジョンへ移って『シスケル&イーバート&ザ・ムービーズ(Siskel & Ebert & The Movies)』の司会になった。

異なる映画観を持つ彼らは、新作映画紹介でそれぞれの観た感想や評価を述べるが、互いの評価が異なることも多くしばしば擁護派と否定派に分かれてエキサイティングな議論を展開した。最後にそれぞれがサム・アップ(親指を立てる、おすすめ映画のサイン)かサム・ダウン(親指を下げる、おすすめしない映画のサイン)を行うが、視聴者の番組に対する反響や人気は大きく、二人ともが評価する「サムズ・アップ」や、二人ともが酷評する「サムズ・ダウン」の映画は観客数に影響が出ることもあった。

シスケルが脳腫瘍1999年に死去すると、番組は『ロジャー・イーバート & ザ・ムービーズ』に題を代え毎回違うゲストを呼ぶ形になった。2000年秋以来、シカゴ・サンタイムズのコラムニスト、リチャード・ロイパー(Richard Roeper)が毎回イーバートと共に司会を務めるようになっている。

イーバートはその他、様々な映画のDVDで映画の解説をするオーディオ・コメンタリーを担当している。
映画評論以外の経歴

10代の頃、イーバートはSFファンダムに出入りしており、多くの伝説的なSF同人誌(リチャード・A・ルポフ / Richard A. Lupoff の「Xero」誌など)に記事を書いている。

1970年、イーバートは映画監督ラス・メイヤーに手紙を書いたことをきっかけに、後にカルト映画として人気を誇るようになった『ワイルド・パーティー』(Beyond the Valley of the Dolls)の脚本をメイヤーと共同執筆した。当時酷評されたこの映画に関わったことをイーバートは好んでジョークにしているが、メイヤーとの友情は続き、1979年の『ウルトラ・ヴィクセン』(Beneath the Valley of the Ultra-Vixens、公開当時の邦題『ウルトラ・ビクセン/大巨乳たち』)の脚本を共作したほか、メイヤーが監督するはずだったが完成せずに終わったセックス・ピストルズ主演映画『誰がバンビを殺したか?』(Who Killed Bambi?)の脚本にも関わっている。
映画に対する考え


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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